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ラトビアの取材旅

10月10日から始まったラトビアの取材。大変ありがたいことにエストニアのタルトゥ大学の教授からご紹介いただいたラトビア在住の女性、その他Facebookなどを通して拡散してくださった方からのご紹介のおかげで、私は12日ほど過ぎた今日も毎日一日も休まずに取材を続けている。
実は、ラトビアにはあまりコネクションがなく、どうやってこの取材をすべきか思い悩んでいた。ラトビアを挟む、エストニアやリトアニアは取材に苦労することはあまりないのだが、ラトビアだけなぜかつかみどころがない場所であった。取材してもいいよという方々に出会うことがありがたい。

10月の初めはエストニアで体調を崩し、喉がハスキーになっていて、だいぶよくなったもののもう少し声が元通りになるには時間がかかりそうだ。

バルト三国においては、コロナという言葉もほとんど過去のものとなり、「風邪ひいちゃってさ」みたいなものはコロナ前の認識でそれがなんなのかなど気にする人もいない。当然マスクもしている人は1人も見たことはない。
取材の方の中で体調不良でお一人がキャンセルになったのだが、連日の取材でかなり疲れていたので、むしろ心から感謝した。
その代わり素晴らしいマナーハウスの人々と場所を見ることができた。

マナーハウス

取材はできるだけ同じ地域で移動するように調整し、ラトビアの首都リガを中心にまわり、中心から比較的に行きやすい場所はピボットのようにリガと各場所を往復した。ラトビアには4つの文化区域がある。
クルゼメ(Kurzeme)西部
ゼムガレ(Zemgale)中南部
ヴィドゼメ(Vidzeme)北東部
ラトガレ(Latgale)東部
面白いことに、これらの文化区分に入ると気のせいだろうか雰囲気が変わる。天気や土地の起伏、人々の雰囲気、街の様子などだ。

これらの全ての地域のご家庭に、ここ12日間で足を踏んではいるのだが、まだまだ知らないラトビアがある気がしてならない。気になるから何度も足を運んでしまうのだ。

特にここ数日はラトガレ地方というロシアとベラルーシ国境に近い地域にいる。他の地域と全く違う空気感がある。それはやはりロシアの雰囲気を感じるからだ。ロシアだけではなく驚くことに、料理にもなんとなく私はアジアとの細いつながりも感じた。これまで感じたことがなかった感覚だった。
これまでに食べたどのバルト三国のおかゆ(いわゆるポリッジ)よりも、日本の炊き込みご飯に似た大麦のそら豆のおかゆが出た時には、思わず歓喜した。

他人の家の台所を拝見すると、地域の区別とは別に、家族の構成やその関係性も日本のそれとだいぶ違うこともある。
台所の床を息子と一緒に直した女性、スパイシーな料理を娘と共に作るお母さん、森で採れたキノコを誰も喜ばないと言いながら作るお母さんなどなど。
料理はただお腹を満たすものではなく、そこに介在する人々が作る物語の結果のようなものだと取材を通して感じる。

夫が作ったキッチンを夢のようだと言って使う妻

日本では信じられないような保存食の量や、材料調達の方法などラトビアには面白さがある。家庭ごとに考え方も違ったり、習慣も違うのでそれがますます知りたくなる気持ちを高めている。
あと数日でラトビアでの取材は終わるが、身体はさすがにつかれているものの、心地よい疲れと共に、夜になると次の日にどんな出会いが待っているかと思うと楽しみになる。私は会った人たちや発生した事象を頭の中で熟成させる期間が必要なのだが、良い発酵が待っているはずだ。

そしていつの日か協力していただいた現地のみなさんに、恩返しができてまたラトビアの旅をする機会をもらえるように進められればと考える。
ラトビアは私にとってつかみどころのない国だと難しさを感じていた国だけに、今回の出張で少しずつそのつかみどころのなさが何なのか輪郭だけ見えたような気がする。
すこしずつ味が出てくる国、それがラトビア。気になる国には何度も言ってしまうのは私のこだわりなのだろう。


有益な情報、ためになったなーと思われた方はぜひどうぞ。いただいたサポートは次作の書籍の取材費として使わせていただきます。