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マイケル・デュモンティアー『Scribbling Over the Drawn Human Figure』レビュー

本稿はマイケル・デュモンティアーの『Scribbling Over the Drawn Human Figure』という2009年に制作されたインスタレーションについての批評であるが、
2012年時点の情報をもとに書かれているため、情報が現代の視点から書かれているわけではないという点についてあらかじめ留意いただきたい。

また、マイケル・デュモンティアー(Michael Dumontier)については、インターネットで画像検索などしていただければ、彼がどのような作品を発表しているかわかると思う。

本稿では彼の詳細については触れていないので、興味のある方は検索いただきたい。

0.作品『Scribbling Over the Drawn Human Figure』について

本作はマイケルのギャラリーでの初めての個展に出品された作品であるが、まず作品についていうと、下記のようになっている。

1.ホワイトキューブであろう壁に取り付けられた木の板にやや大きめの白い本が置かれていて、途中のページが開かれている(文字はほとんど見当たらないが、白紙ではない)。その開かれたページの右半分に大きく(恐らく鉛筆か何か、黒くて細い線で)ドローイングが描かれていて、よく見ると大きな丸い顔のようなものに三角の胴体がくっついていてこれがタイトルの「Human Figure」だと思われる。その左右の辺の真ん中辺りから手のような線、下辺の両端には足のような鈎状の線が伸びている。(頭のほとんどは小刻みに描かれたラインで塗り潰されている。)開かれた本のページの左端はクリップで留められていて、そのクリップに同じくはさまれた黒い紐が本を横断するように真っ直ぐに張られていて、その紐は右のページへと繋がる境界線辺りで一度本の幾つか下のページの中に潜り、そのページの終わりでまた表に姿を現すようになっている。
2.木目の見える素朴な板の右側には釘が4本打たれており、一辺が板の縦の辺の1/4ほどの大きさの正方形のようなかたちをしている。下からは黒くて太い紐が板の上に乗るように伸びてきて、板の端で直角に曲がり、中央付近まで板の縦の辺に平行に伸び、またそこで直角に曲がり、板の横の辺と平行に伸びていく過程でグレーの丸いものに合流し、その横に前述した4本の釘が存在する。4本の釘の上辺には本の方から伸びてきた細い紐がひっかかり、上辺の右側の釘の下にある釘のところで留められている。釘は大きくて太いものが上辺に2本、小さいものが下辺に2本あり、どちらも無彩色で、太い紐を固定するためにも幾つか小さい釘が使用されている。
3.左のページに伸びた紐はクリップを境界にしてたるんでおり、たるんだ紐が左のページにかかっている。このこんがらがった紐の作り出すゆるやかなリズムと、紐の本を横断している部分の緊張感が視覚的なコントラストを生み出していて、更にこれらは下から伸びて来る異なる大きさの紐の終着点に配置されたグレーのわっかのようなもの、その上の黒くて細いテープのようなものの生み出す円形のリズムとも結び付き、関係するように組まれているように思う。そしてそのような直線的に繋がりながら画面を横断する紐同士のリズムを断ち切るように、真ん中に白い本のページが入り、そのページの中では細いラインが非・直線的に描かれる。

1.小文字の「セカイ」観

マイケルはThe Royal Art Lodgeというアーティストのグループの一員として活動していたカナダの作家である。

当時から発表していたのはこうしたインスタレーションではなくドローイングやタブローが多く、かつその内容に関しても、動物がペンをくわえて"UFOを見た"などの文字を描いているというシリーズや、裸の人間が本に挟まれている、あるいは蝙蝠と虹のペインティングといったように、
一見して意図が通じるような、象徴的な、あるいはそれだけで固定の意味や印象を持ったモチーフを扱うことが多かったので、このような形式は表現としては少し珍しいように思った。

ー調べると、本作で用いているドローイングは子供の描いたもので、そのコピーを貼り付けて加工しているらしい。そして、本も既製品を切り取るなどしており、本作においてマイケルの創作は、どちらかといえば、すでに存在しているものおよび他人の作り出したものを素材としてカット&ペーストするという、DJのような存在に近いのかもしれない。

私はまず初見で、本作はマイケルの作品にしてはやや大きめではあるような気がした。

彼のペインティングやドローイングは元々、かなり小さめのものが多く、
今回の展覧会に出された他の作品を見ても、白く塗った木の板に描かれた複数の小さなドローイングを細い木目の見える木の板の上に乗せて壁に立て掛けたもので、

こうした彼の元々の作品においては、使っている素材がどこから入手されたものかは不明だが、総じて比較的どこにいる人間でも平等に入手する機会が訪れるであろうありふれたものを使用し、その加工も最低限にとどめており(例えば、支持体を不定形のものにして描かれたドローイングやペインティングはほとんど見掛けられない)、
俗にいうところの「半径1m」的な、あるいは自らの手の届く範囲のもので創られた世界観というものを、マイケルは作品に打ち出しているように感じていたので、今回の展示もそのように(大きい、と意外に)感じたのかもしれない。

2.根源的なものの不在

こうして考えてみると、珍しいように見えた本作も、手法としてはマイケルの過去の制作のパラフレーズなのかもしれない。

本作もそうであるが彼の作品は一見して決して派手とは言えず、そのスケール感も然り、寧ろ少し地味なことが多い。

そしてこのように、ひそやかな存在感こそマイケルの意図しているところであり、 展覧会におけるホワイトキューブ的な空間で完結するというよりは、インテリア・ショップに置かれている家具のようなイメージが個人的にはしっくりくる。

そしてそうした手法には(服飾でいうところのモード・ファッションに対するリアル・クローズのように)「更なる展示空間」を想起させられる。

The Royal Art Lodgeではマイケルは、複数名のアーティストたちと一緒に活動していたが、その中のひとつにドローイングのミクスチャー的なものがある。

The Royal Art Lodgeにはしばしばクレジットの不明な作品があって、それらはその複数名のアーティストたちによる合作的なものだったりするのだが、かつて「お互いに影響しあっている」といった言葉通り、どれが誰の作品であるかは一見してわからなかったりする(特に、私はマイケルのドローイングを初めて見た際にはMarcel Dzamaの方の作品ではないかと錯覚した)。

こうして考えてみると、珍しいように見えた本作も、手法としてはマイケルの過去の制作のパラフレーズなのかもしれない。

10年ほど続いたThe Royal Art Lodgeの解体の翌年に制作された本作はだから、彼が過去を振り返りながら自分を見詰めていく中で探っていく作品の深化の過程であるとするならば、そこにおいて彼が他人の作った素材で作品を作っているのはなんとも可愛らしい。

インターネットの文化が発展し、作品の発表がより手軽で簡単になっていった現代において、一時期「ベッドルーム・ミュージック」といった類の自宅で録音された音楽が俄に盛り上がりを見せていたけれど、美術の世界におけるベッドルーム・ミュージックなのだとしたら、任意の誰かの日常をシェアする、という類のアートという意味で、肩の力の抜けたマイケル・デュモンティアーの作品は面白いと思う。


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