幽霊としての人間、記号としての生(クリスチャン・ボルタンスキー『Lifetime』レビュー)
本稿は筆者が2019年8月16日に鑑賞したボルタンスキーの展覧会『Lifetime』のレビューですが、4000字近くありあまり読みやすいものではないので、各チャプターの①〜③の文章を読めば大筋の筆者の考えがわかるようになっています。
また、彼のバックグラウンドについては、文中で触れていたりいなかったりするので、興味のある方はWikipediaなどで調べていただくと幸いです。
氏にとっての「死」
①つまり彼の作品においては、作者の意図・コンセプトと必ずしも鑑賞者の解釈がマッチするわけではないーだが、それは彼の想定の範囲のことだろう。
現世・来世・死の世界と、入った瞬間に立ち上る強烈な死の臭い・・入るタイミングにもよるが、1/2の確率で、本展覧会での鑑賞者は入った瞬間に人間の嘔吐く音、くぐもった咳を耳にするだろう。
ボルタンスキーの映像作品『咳をする男』は、彼の最初期の映像作品であり、汚い部屋で血を吐きながら咳き込む男が映されている”だけ”のものだ。
私は数年前のフランス大使館でのインタラクティヴな展覧会『No Man's Land』で目にしたもので、懐かしさとともに反吐の出るような心地よい嫌悪感を覚えた。
『咳をする男』とスイッチングされるのは人形同士(厳密には仮面を被った男と人形の女)の性的接触を描いた『なめる男』。
暗幕に遮られた部屋の奥のスクリーンに投射された映像・音で鑑賞者は支配され、さらに約2分と短いながら、執拗に同じ動作が繰り返されることによるドープな展示空間は、作品への没入感を重要視するボルタンスキーの展覧会としては十分すぎる幕開けで、首にナイフを突きつけられるようなゾクゾクとした緊張感に自然と笑みが溢れる。
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ボルタンスキーが「死(タナトス)」や「記号」をモチーフにする理由について、彼自身の言葉を借りて表現するならば、私はこのように解釈する。
・「記憶」のアーカイヴを行うこと。
・写真、衣服、名前ーその人の存在を示すもの、それは誰かがそこに存在したことを意味する。
・知識によって伝達されるものは、たとえフィジカル(肉体)がなくなったとしても再現・伝達可能な「知識」として他者の中に生きる。
ただし、それはある種厳密な意味での「伝達」ではなく、例えば人間の顔のモノクロ写真が羅列されるインスタレーション『保存室』からホロコースト、『死んだスイス人』のシリーズからは、その作品を見ただけでは死亡告知欄に載っていた(実際に死んでいる)スイス人を連想することは難しいかもしれない。
つまり彼の作品においては、作者の意図・コンセプトと必ずしも鑑賞者の解釈がマッチするわけではないーだが、それは彼の想定の範囲のことだろう。
ちなみに、彼は自身の生死観について下記のように述べている。
私たちより前に人々がいたこと、そして私たちより後々に人々がいるであろうことを私たちは知っています。そうしたことを知っているから、私たちは人間として存在している。(展覧会図録・杉本博司氏との対談より)
厳密な意味は一見では受け取れないかもしれないが、一見しただけで「人間」「喪失」「死」の強烈なイメージを受け取る、作品におけるコンセプトの高度な抽象化ーそれがボルタンスキーの作品の興味深い点だと筆者は感じる。
心の中の「神殿」
②それはつまり、人々の心(あるいは記憶)の中に内在することである。
そもそも私はインスタレーションというアート作品があまり好きではない方である。(その作風で好きなアーティストは存在するがーといってもヨーゼフ・ボイス、アニッシュ・カプーア、アン・ハミルトン、レアンドロ・エルリッヒ、そしてクリスチャン・ボルタンスキー・・かなり限られる。)
展覧会が終わって取り壊されてしまうことも多い「インスタレーション」という表現手法については、基本的には多くの場合は「オリジナル」が存在せず、映像のアーカイブで鑑賞することになる。
現に、ボルタンスキーの作品も(物理的な意味で、「オリジナル」が)現存しないものも多いそうだ。このような鑑賞体験について、私は懐疑的であった。
現に近年のボルタンスキーの象徴的な作品である『ぼた山』『保存室(カナダ)』についても、コートや古着といった比較的用意しやすい人間の衣服を用いたインスタレーションであるが、彼は敢えて同じものを持ってくるのではなく、その作品は会場ごとに新しく構成・アウトプットされたもので、同じコンセプト、素材、タイトルを持ちながら、同じものは実質的に存在しない。
これは何故なのか?ボルタンスキーの言葉を借りるならば、それは「ユダヤ人は心に神殿を持つ」という彼自身の出自が関係しているかもしれない。
・ユダヤ教徒は心の中に神殿を内在する。彼らはいつも神を探し、真実を探すが、答えを見つけることはできない。
・地球上の誰もがロックされたドアの前に立ち、その鍵を探している。良い鍵は存在せず、鍵を探すこと、それこそが人間らしい営みである。
・物として残るものは渡さず、知識によって伝達する。そうすると、自分が死んだとしても(第三者の手で)作品を再現できる。
補足するとユダヤ教というのは書物の経典も存在するが、「トーラー・シェベアル=ペ(口伝のトーラーの意)」という伝統的に口伝律法という言葉(口語)による伝統が存在する宗教である。
それはつまり、ユダヤ教の宗教的指導者であるラビによる口伝が今日まで残っていて、現代のユダヤ教に続いているし、構成のユダヤ教にも続いているということを指す。(当たり前であるが)
冒頭でも述べたように、彼らユダヤ教徒にとって物理的存在というものはそこまで重要視されず、むしろその精神性や、文化としての存在に重きを置かれているように感じる。
それはつまり、人々の心(あるいは記憶)の中に内在することである。
「対話」の可能性
③「記号」とは任意の事象の「そのもの」性を抽象化したものであるからして、その「意味」については、それを享受する側のナラティヴに依存する
ボルタンスキーは自らの作品について、「知識によって伝達されるものは、たとえフィジカル(肉体)がなくなったとしても再現・伝達可能な「知識」として他者の中に生きる」と語っていたが、
彼が作品の中で古着、コート、電球など入手が比較的容易なものを用いつつ複製可能な「記号」を多用するのも、文化的・「伝説」的に自分の作品を人々の心の中に残すための装置として機能させるためなのかもしれない。
さらに彼はこうも述べているー
・重要なことは作品の「前」にいることではなく、作品の「中」にいることです。
・私にとって重要なのはそこに行くことではなく、語り継がれるような話を作ることです。
ーなるほど、故に彼はインスタレーションという手法を用いているのだ。
板のようなものに黒いコートを着せ、首の位置に電球を忍ばせたオブジェが通りすがりに「神に祈ったの?」「感覚はあったの?」と質問を投げかけてくるインスタレーション『発言する』は、肉体的な意味では人間らしさが損なわれているが(土台は木製なので当たり前ではある)、であるが故に、既に失われた人間という「記号」としての存在を強く感じさせる。
発言そのものは一方的に投げかけられるだけだが、これも非常に対話の可能性を感じる。
というのも、「記号」とは任意の事象の「そのもの」性を抽象化したものであるからして、その「意味」については、それを享受する側のナラティヴに依存するからだ。
(※つまり、「(ホロコーストで)殺される前の(ユダヤ)人はこうでした」と伝えるよりも、「感覚はあったの?」という抽象的な質問を投げかけることにより、鑑賞者は死の瞬間をよりリアルにイメージする。)
これも対話(の可能性)を重視するユダヤ教徒の彼ならではの作品かもしれない。
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「同じ一つのことを言うためには、ふたりの対話者が必要である(意訳)」というのはエマニュエル・レヴィナスの言葉であるが、彼もまたユダヤ人の学者であり、対話の可能性についての著書を多く残している。
「過去に接続された現在は、全面的にその過去の継承(相続)なのである」エマニュエル・レヴィナス
ー物質としての存在は喪失しても、人々の心の中に内在する、それがインスタレーション(彼自身は空間のアートと呼んでいる)という「装置」であり、であるが故に、彼の作品は人々の心に深く沈み込むように仕掛けられているのだ。
恥ずかしながら、筆者はこの時初めてインスタレーションというものの本質的な意味を感じられた気がした。
<余談>
ちなみに、筆者が本展覧会で一番印象に残ったのは、ポスターにも切り取られている『ミステリオス』であった。
『ミステリオス』では天井から白いボードが吊るされていて、三面にそれぞれ異なる映像ー左から、海・何らかのオブジェ・海洋生物(クジラ)の白骨死体ーが投影されている。(※私の記憶ではオブジェの映像からは時折、音が出ていたと思う。)
ーこれはクジラの言語を造り、クジラに語りかけることを目的とされた、パタゴニアの海に建てられたトランペットのオブジェを巡る記録である。
また、東京の展示のために制作されたという、異形のオブジェの影を白い布の裏から投射する『幽霊の廊下』、金色に輝くエマージェンシー・ブランケットを天井から吊るされる電球が照らす『黄金の海』のもつヴァニタスにも心を動かされた。
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クリスチャン・ボルタンスキーの活動の全貌を紹介する、日本では過去最大規模の回顧展というだけあり、このように丁寧に氏の作品がフックアップされたことにより、私は初めて「クリスチャン・ボルタンスキー」の核心に触れることができたのではないかと感じた。
展示会場の終わった先にはミュージアムショップが続いて、私は図録とオーナメントを買って帰った。とても素晴らしい展示で、そこに立ち会えたことを光栄に思う。
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