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空洞のもつ恒久性としての「くつろぎ」(ヴォルフガング・ライプについて)

タンポポやヘーゼルナッツなどの花粉を実際に自分で採取し、丁寧に篩にかけて床に敷き詰める作品や、お米を山のように盛り上げたものを等間隔で敷き詰め、しばしその上に大理石や御影石などの家の形をしたオブジェを置く『ライス・ハウス』、

蜜蝋を用いて回廊のようなスペースを作ったり、蜜蝋のブロックを塔のように積み上げる作品、あるいは大理石に牛乳を注ぎ、表面張力により少し丸みを帯びた四角とつやつやした牛乳のマチエールが美しい『ミルクストーン』・・

ヴォルフガング・ライプは1950年、ドイツ出身のアーティストである。彼はアーティストとしては少々変わった経歴を持っていて、1968年から大学で医学を学び、74年に医学の博士号を取得しているー彼自身、「自分は医者である」と答えている。彼がアーティストとしての活動を始めたのはその後の話だ。

ライプは誰しも身近に利用していたり、あるいは身近に存在するものを彼の手で再構成することで、彼は素材そのものを別のメッセージのトリガーにする。

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(余談:日本人が見ると少しむず痒くなる画像かもしれない。)

例えば、クリスチャン・ボルタンスキーが記憶のアーカイヴを行い、「その人がそこにいた」ことを表すために写真や服などのモチーフを記号的に用いたように、ヴォルフガング・ライプもまた、生命そのものの象徴として、牛乳や白米などの食料(=生命の糧となり、やがて排出されるもの)や、花粉(=次の世代へ遺伝子を繋ぐ、伝搬するもの)を用いていると言える。

だが、ライプの作品には強いメッセージ性(特に政治的意図)は含まれておらず、彼自身、作品について多くを語ることはない。

ロラン・バルトの「作者の死」というのは、(ネガティヴな意味の)ポスト・アポカリプス的な終焉的な意味ではなく、作品そのものの言語性にフォーカスすべきであるという意味ーつまり、

ドラマチックな出自、放蕩生活、あるいは自殺といった、「作者」というある種大文字のナラティヴについては、本来は度外視されるべきであって「作者」という閉じたエクリチュール的なバイアスで作品と対峙する行為に対し、作者の「死」によってエクリチュールが「始まる」というのは、作品を作者の「人格」から解放する行為である、とでも言えるだろうか。

バルト的解釈では俳句というのは、記号内容を蒸発させ、記号表現が残るという意味での「空虚」さを有するとしている。これは、日本的文化の持つミニマリズムを端的に表現したものではあるが、ライプの作品にも同じようなものを感じる。つまり、敢えて「作者」が語らない空洞を作品が持つことにより、テクストの宛先を「読者(=鑑賞者)」に委ねる所作からは、なるほど東洋哲学的思想傾向を感じられるのだ。

作品の「意味」をコントロールせず、「アレゴリー」的に断片を通し別の意味作用をアフォードするライプのアティチュードはまた、であるが故にポストモダン的なのかもしれない。

「これは物理的な肉体が神格化され、肉体の死を悲劇と捉える西洋文化では受け入れがたい見解かもしれません」と前置きした上で彼は語る。

「我々の人生は儚く、我々の身体も儚いものです。ですがそれは新たな道の始まりでもありー物理的な肉体を離れた後に宇宙と繋がるような、恒久的なものでもあるのではないか、と私は気がつきました。」

彼が用いる”儚い(ephemeral)もの”・・花粉は風で飛ばされてしまうし、白米も地に固定されている訳ではない。また、牛乳は防腐処理が施されていないため、次第に蒸発し、腐っていくー物質が移ろい、固有でない様子そのものを作品化するという意味でも、クリスチャン・ボルタンスキーの作品観にも近いかもしれない。

ただ、「解体されても手段が残っていれば再構築ができる、その可能性こそ文化であり、神話的作用であり、私が意図したことである」と語るボルタンスキーがユダヤ教的であるのに対し、

東洋の哲学やスピリチュアリズムに影響を受けたヴォルフガング・ライプは、「肉体が滅んだ後の(精神性という意味での)恒久性」が明確に意図されているという点で相違はあるだろう。

「私は職業を変えたつもりはなく・・ただ、医者として私がやりたかったことをアートに置き換えているだけです。」
"I feel I never changed my profession; I just put in my artwork what I wanted to do as a doctor. "

ヴォルフガング・ライプの作品には「語り手」が存在しない。いや、厳密に言えば、彼の作品におけるそのものが「そのもの」であることにより、象徴化されたモチーフが語り出す敷衍可能なエクリチュールを我々は受け取ることができる。

彼の作品は一見して意味がわからないかもしれない。・・が、大切なことは正しい「意味」を受け取ることではなく、作品そのものを感じることである。

「花粉は植物にとって新しい生命の可能性です。花粉はたくさんの意味を持っているし、生き物は花粉の重要性について、本能的に知っていると私は思うのです」“pollen is the potential beginning of the life of the plant.(中略)And of course it has so many meanings. I think everybody who lives knows that pollen is important.” ※MoMAより、意訳

ジョルジョ・アガンベンは事物の表象可能性のことを「くつろぎ(Confort)」と表現したが、ある固有の何か(ライプは例えば『ミルクストーン』については、「極めて単純な行為ですが、これが『生命とは何か?』という問いに対する私の答えでした」と言っている)を表現しつつも、

「各人が動き回れる空なる場所」として記号内容が空白になっているライプの作品から我々は、象徴としてのモチーフを通し自らの言葉でそのメッセージを受け取ることができる。

このように対話の可能性を有した作品という意味では、ヴォルフガング・ライプもまた、普遍性を持つアーティストと言えるのかもしれない。

【参考文献】


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