「ユキ先生」
最初のプリエから順番がまったく頭に入ってこない。ユキ先生が一生懸命説明しているというのに。寿美香は、ユキ先生の右のうなじから目をそらすことができない。
キスマーク。
他のレッスンメイトは気づいているのだろうか。気づいていないはずがない。なにしろ、ユキ先生の肌は雪みたいに白い。その細いうなじに、ハッキリと赤い痣がついているのだから。
そうか、もしかしたら皆は、あの赤いものが虫刺されくらいにしか想像できないのかもしれない。
でも……。私にはわかる。
音楽が流れる。寿美香は条件反射的に動き始めるが、自分が何をやっているかよくわかっていない。ふと気づくと、音楽が終わっていた。今度は左だ。半回転するときに、前後のレッスンメイトが怪訝そうに寿美香を見ている。寿美香は大人のクラスでは上手な組。バーの順番も滅多に間違えることがないので、寿美香を見て真似をしている人は多い。そういう人たちは、今日はきっと寿美香に釣られて間違えているに違いない。
バーのフォンデュになっても、寿美香の動揺は治まらなかった。だがなんとかこなすことができたのは、長年の経験と慣れだ。ユキ先生もさすがに気になったのだろう。寿美香に向かって声を掛ける。
「集中しましょうね!」
だめ、集中なんかできない。
そのうちにグランバットマンになり、バーが終わった。
「じゃあ、一曲流しますから」
ユキ先生が言うと、各々ストレッチをしたり水を飲んだり汗を拭いたりする。ユキ先生も、水を飲みながら鏡を見て髪のほつれを直している。と、一瞬、固まったのが寿美香には分かった。ユキ先生は素早く、近くに置いていたタオルを首に巻いた。
その日のユキ先生の萌黄色のレオタードに、その何処かで配られたような安っぽいタオルは酷く不釣り合いだった。
それでも、ユキ先生は淡々とセンターレッスンを進めた。アダージオ、タンデュ、アレグロ。そして、グランワルツ。プレパラーションからトンべパドブレ、グリッサードパディシャ! フワッと飛び上がったユキ先生の首筋から、タオルがハラリと落ちた。
着地したユキ先生の肌は上気して輝いていた。うなじの赤いモノは、更にいきいきと浮かび上がっている。皆がそれを見ていた。
「先生、虫刺されですか? それ」
大人クラスで一番年配の伸子さんが、大きすぎる声で聞いた。
「……そうなんです。薬塗ったんだけどまだ治らなくて」
タオルを拾いながら小さな声で答えたユキ先生は、さっさと話を終えたそうだった。だが、伸子さんは、
「皮膚科に行った方がいいですよ、先生。痕が残ったら厄介ですよ。私の行ってる皮膚科は……」とかなんとか言い出した。
ユキ先生は救いを求めるように寿美香を見た。2人の目が合った。
レッスン後、更衣室で着替えながら、寿美香はLINEする。
「何、アレ」
すぐに既読が付いて、返信。
ユキからだ。そう、ユキは私の彼女。
「スミがしたんでしょ」
「嘘」
「ホント」
「した覚えない」
「別れ際のアレだよ」
レッスンメイトが着替え終わり、次々と寿美香に声を掛けながら出ていく。
「お疲れさま。お先に」
「お疲れさまでした。また来週」
目をスマホに戻す。
「何、浮気したかと思ったの?」
そうだよ、ユキ。
だって、ユキは綺麗だもの。その雪のように白い肌。
誰にも渡したくない。
更衣室には誰もいなくなった。
隣の講師室から、足音が聞こえる。ユキだ。
ユキは本当に綺麗だね。
寿美香はユキをゆっくりと引き寄せ、うなじの赤い痣に舌を這わせた。
(終)
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