”誰のためにもならない”リアル”はいらない―――” とある記事で見かけた、ある方が上司からかけられた言葉。 私はこれを厄介だと感じた。 この言葉には”自分の為にも”という意味が含まれている。 いや、すごく健全なのだけれども、 私はちょっと事情があってこじらせてしまっていて… 日常これを反射的に拒絶しているから、受け入れずらいと感じてしまう。 スッと受け入れられた時、かなり生きやすくなるだろう。 (部下に)自分で自分の世界を生きやすくするために、 そうあれれば、幸せであれ
つめたい、いや――冷え切っているわけでは決してない 子供から大人になるにつれ、人の関係性が空虚に思えてくる。中学生あたりから感じ始めたそれは大人になるにつれ、色濃く、増していく―― 嘘や不満が陰口として蔓延していくその空気が『温かい』とは、とてもではないが感じられない。助け合い、手伝い合いすら、そこに損得勘定が渦巻いている状態が気持ち悪い——— それを普通だと感じる人も、もちろんいるのだろう。いやむしろ今の同年代はそっちの数の方が圧倒的に多いと体感で外から訴えかけられて
ふと、『現状ディストラクション』を思い出す。(銀魂の映画がテレビ放送してたから見ただけだけど。) がむしゃらにしかし適当に楽しく生きてきた毎日で、意図せず大事なモノを傷つけて、後悔して…そういう過去をふと思い出して、馴染めてきた現状(いま)の歩みを止めてしまう。 その過去だって特別悔いの残る選択をしたわけじゃなくて、今でも結局同じ行動をとるだろうと納得しているのに、どうしても後悔が残ってる。意図したものでなくても『傷つけた』というそのことが酷く自分を傷つける。 その影に