ちっちゃな幸せ物語(2)
パパとうな重
ピーポーピーポー、ピーポーピーポー…
「おにいちゃん、
きゅうきゅうしゃ いっちゃった・・・」
二歳の妹が、私に片言で伝えた。
小学三年生になったばかりの五月初旬。
遠足の前日だった私は、
胸を躍らせて学校から帰ると、
弟が交通事故に遭ったことを知らされた。
友だちの家から帰る途中、
路地を渡るために待っていた時、
自転車の前輪が前に出ていたらしく、
スピードを出して走ってきた車が、
前輪をひっかけて弟は飛ばされたらしい。
大腿骨を複雑骨折、
全治半年の大けがだった。
それから約半年間、
母は、家に居なかった。
弟の看病をするため、ずっと病院に
付添いで泊まり込みだったのだ。
妹は、まだ小さいからと、
伯母の家に預けられた。
一人でバスでお見舞いに
それから一週間くらい経った頃、
家の黒電話が鳴った。
「もしもし?」
ママの声だ。
「ごめんね。」
私は、涙が出て止まらなかった。
「公衆電話だからあんまり時間が無いの。
病院に遊びにいらっしゃい!
今から、病院までの来方を教えるから
紙に書いてね。」
それから私は、母と弟に会いに行った。
バスを乗り継いで、狛江市の「経堂」
という駅の近くにある病院だった。
普段からバスを乗り継いで通学して
いた私は、ピアノを習いに行くのも、
友だちの家に遊びに行く時もバス
だった為、初めての所でも行き方さえ
わかれば、大したことではなかった。
お見舞いであるにもかかわらず、
久しぶりにママに会える!
弟にも会える!
私は嬉しくてウキウキしながら、
バスに揺られた。
病院に着いて目にしたのは―――
手術を終わらせた弟の右足が
上から下まで全部キプスで覆われ、
天井から吊るされている光景だった。
「クスッ」私は口に手を当て、
思わず笑ってしまった。
「ごめん、ごめん。
漫画の主人公みたいな姿だったから…」
と言うと、弟も笑った。
良かった―――。
弟の足は痛そうだが、
頭は無事で良かった…
死なないで良かった…
笑う元気があって良かった…
とほっとした。
母と弟と私の三人は、ベッドの小さな
スペースでトランプをして遊んだ。
入院は長くなりそうだが、
母と弟の顔を見て、
私は安心して病院を後にした。
「バイバイ。またお見舞いに来るね!」
「うん。バイバイ。」
病院の下まで見送りにきた母は、
「あなたはしっかりしてるから大丈夫ね。」
「うん。」
「またパパと一緒に車でいらっしゃい!」
「うん!」
そう言って別れると、
母は、私の姿が見えなくなるまで
ずっと手を振り続け、
大きな笑顔で見送ってくれた。
母の姿が見えなくなったとたん、
急に涙がこぼれてきた。
母と弟に会えた喜びと、
またしばらく会えない悲しみ、
それから、
母の笑顔を見られた安心感からか…
弟や妹の面倒を見ながら母を手伝い、
長女として育ってきた私は、
泣いた記憶がなかった。
それまでの分、
一気に湧き上げてきたように、
涙が溢れ出てきた。
バスに乗るため、なんとか
泣き止んだものの、バスの中でも
また涙が出てきて止まらなかった。
恥ずかしいという気持ちもあり、
なぜか、周りの人のことまで考えていた。
(周りの人も、きっとあの子は悲しい
ことがあったのねって、思ってくれれば
いいわ。)勇気を出して割り切り、
バスの中でもすすり泣きをしていた。
バスを降りると、またすぐに本泣きに。
バス停から家までの20分くらい、
ずっと肩を震わせながら歩き、
大泣きをしながら帰った。
母の居ない生活
私は、私立の小学校に一時間かけて
通っていたため、家の近くに
友だちは少なかった。
学校から帰って着替えると、
毎日、玄関の前(家の門の内側)で、
父が車で帰ってくるのを待っていた。
折り紙を折ったり、
リリアンを編んだり、
一人遊びをして。
周囲が暗くなっても
家の中には入らず、
ずっと玄関の前で一人で待っていた。
近所の小母さんが、
心配して声を掛けてくれたこともあった。
「おうちに入れないの?」
「そうじゃないの、パパを待ってるの。」
「おうちの中で待ってたら?」
「いいの。ここで待ってる…」
「大丈夫?」
「遊びながら待ってるから大丈夫。」
パパの愛車の“スカイライン”は、
南国の海のようにきれいな水色の車だった。
でも、毎晩父が帰ってくる頃には、
その色も見えず、遠くに光る車のライトと
音だけが手がかりだった。
家の前の路地に曲がってくる車の
遠くでピカッと光るライトを見つけると、
(あ、パパだ!)
と立ち上がり、父が車をすぐに入れられるよう、
ガレージの門を開けて待った。
母が毎日、そうしていたように。
でも、車が家の前を通り越し、
(なんだ、りえちゃんちのパパか・・・)
と、何度もがっかりした日もあった。
斜め前に住んでいたりえちゃんのパパは、
サニーという同じ、日産の車に乗っていた。
日産自動車に勤めていたらしい。
たぬきうどん
毎晩、父が帰ってくると、
近所のお蕎麦屋さんに食べに行った。
私は毎日同じメニュー、
“たぬきうどん”を注文した。
父は、寡黙な人だった。
歩いていく時も、帰り道も何も話さなかった。
父は、蕎麦屋のテレビで野球を見ながら、
黙々と晩酌をしていた。
そして、父は、何か良いことがあった日には、
「今日は、うなぎを食べに行こう!」
と、うなぎ屋さんに連れて行ってくれた。
当時、手術やリハビリを繰り返し
辛い思いをして頑張っている弟を思うと
不憫でならなかったこと、
母と会えずに我慢していたこと、
大好きな妹とも離れ離れになっていること、
賑やかだった五人家族がバラバラになり、
毎日学校から帰ってもずっと一人でいる寂しい思い…。
何一つ楽しいことが無く、嬉しいこともなく、
我慢続きで笑うことが無くなっていた私にとって、
父に“何かいいこと”があった日は、
そのことが嬉しかった。
だから、「今日は、うなぎを食べに行こう!」と
言われた日は、その時の父の嬉しそうな顔を見て、
ただそれだけで嬉しかった。
月に1回くらいあっただろうか、
父と一緒に“うな重”を食べられる時が、
当時の私にとって唯一の幸せな時間だった。
7月頃のことだったか、
母が荷物を取りに家に戻ってきたことがあった。
「夜は、パパと、いつもどんなものを食べてるの?」
「たぬきうどん」
「あとは?」
「毎日、たぬきうどん。」
それからしばらくして、
お手伝いの小母さん(家政婦)が来るようになった。
その小母さんが夕食を作ってくれるようになって
からは、父が帰ってくる前に食事を済ませ、
家の中でテレビを見ながら、父を待った。
そして、父の車の音が聞こえたら、
ガレージの門を開けに走って外に出た。
「お帰りなさ~い!!」
仕事の軸や方向性で悩んだり、迷ったりしている方々の少しでもお役に立てれば幸いです(^^♡皆さんの夢が叶いますように!私の夢は本を出すこと☆「バランスアップでし・あ・わ・せUP♡」皆さまの笑顔と幸せの輪が一人でも多くの方々に広がっていきますように☆彡