社会は壮大なお店屋さんごっこ
マクドナルドの人が制服着てたり、掃除のおばちゃんが制服着てたり、ホテルマンはエレガントに話してみたり、本当は家ではみんな同じように過ごしてるのに、ビジネスアワーになると急にそれぞれの役を演じる。幼稚園の時のお店屋さんごっこと違うことと言えば、やり取りするのが本当のお金ってくらいじゃないですか。
いや、お金すら怪しいですよね。本当のお金って言ったって、結局幼稚園の時に作った紙のお金と同じと言えば同じ。ただその紙で交換できるものの質が良くなるってだけですかね。例えば、それで交換できるものが、紙で作ったおにぎりから、本当に食べられるおにぎりに変わるとか。
仕事が変われば制服が変わって、不思議なことにエレガントさとか振る舞いも変わる。よく考えたら凄い事ですね。みんなビジネスアワーは何かの役を演じてるんだから仕事が終わったら素の自分に戻るのかと言えば、いつの間にかその役が素の自分になっていったりもする。こういうタイプは「シンクロタイプ」と今は呼びましょう。で、役を演じるのと素の自分を無意識のうちにはっきり区別しているタイプを「分離タイプ」と呼んでおこう。
シンクロタイプは、例えば、非番の日の警察官とかドラマで良く見るイメージ。休みで私服でコンビニ行ってるのに、窃盗犯を見つけたらついつい追いかけちゃうような。これは役割が本当の自分に染み付いたのか、あるいはもともと正義感の強い人だから警察官の役割を担うことにしたのかという2択ありますな。後者を天職と呼んで、前者はナリキリさんとでも呼んでおこう。
一方で、盗撮で捕まった人が実は警察官でしたみたいなニュースも良くある。これは典型的な分離タイプ。警察官という役割が私生活の自分に良くも悪くも染み付いていない。本当の自分と役割はある程度分離されている。これはある意味、矛盾を抱えてるとも言えるし、人間のあるべき自然な姿とも言えそう。がんセンターの医師がガンガンたばこを吸っていたり、お寺の住職がガツガツ焼肉食べていたり、トヨタの社員が日産に乗っていたり。そりゃあ、あるでしょう、人間だもの。ただ外から見たら役割とのギャップが違和感に見えたりしちゃう。
つまり、簡単に言えば、なぜか私生活でも役割を演じることを周りからは勝手に期待されているという事なんでしょうね。ビジネスアワー以外でも、警察官らしく振る舞い、政治家らしく振る舞い、住職らしく振る舞う。さらに、元警察官、元総理大臣などその役割を辞めた後でも役を演じることを期待される場合がある。では、本当の自分はどうなっちゃうのよと。この手の役割は、シンクロタイプじゃないと到底やりきれないと思う。一方で、マクドナルドとかローソンの店員とかは辞めれば制服を脱いで、周りからその役を演じ続けることを期待されたりなんてしない。これは分離タイプ向きとも言える。幼稚園で無意識に練習してたお店屋さんごっこは、分離タイプを前提とした練習で、シンクロタイプあるなんて聞いてないよというのが本音なんじゃないかな。幼稚園みたいに、「お店屋さんごっこ はい、おしまい」ってなった瞬間に全ての重荷から解き放たれて役はリセットされる。その後の本人の振る舞いは素に戻り、人間関係に一切の影響を与えない。幼稚園児がお店屋さんごっこして、役が上手くできないからと言って、胃潰瘍になったり夜寝れないくらい悩んでいるのを見たことがないでしょう。
ただ、いつしか役が素の自分になっていてもいなくても、社会という壮大なお店屋さんごっこの中で、みんなそれぞれ役を演じているに過ぎない。だから、私生活で部長が偉そうに課長の頭を叩くようなことはあってはいけないし、社長や政治家がレストランで横柄な態度を取っていいという事はない。 その役を手に入れるまでに血の滲むような努力をしたり、役を演じ切る努力をしている事自体本当に凄い事だけど、その偉さや凄さはお店屋さんごっこの中で使える特権。
お店屋さんごっこの外では、みんな平等な人なんだもんね。