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「時間を稼ぐのがうつ病の治療のすべてだ」―『うつ病九段』

 駅へ行く。そこで私は電車に乗るのが無性に怖くなった。思えば前回の対局以来、電車に乗っていなかった。
 正確にいうと、電車に乗るのが怖いのではなく、ホームに立つのが怖かったのだ。なにせ毎日何十回も電車に飛び込むイメージが頭の中を駆け巡っているのである。いや、飛び込むというより、自然に吸い込まれるというのが正しいかもしれない。死に向かって一歩を踏み出すハードルが極端に低いのだ。(中略)今でもあの吸い込まれそうな感覚は、まざまざと思い出すことができる。それは、生理的にごく自然に出た感情だった。健康な人間は生きるために最善を選ぶが、うつ病の人間は時として、死ぬために瞬間的に最善を選ぶ。

うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間(先崎学)

 うつ病の治療を始めてからしばらく経ったある時、私も電車に乗った。

 普段、通院には徒歩か地下鉄を利用していたのだけれど、その日はデイケアをやっている別の精神科の初診を受けに行く予定で、別の路線を使わなくてはならなかった。私はJRの駅まで歩き、階段を上り、自動券売機で切符を買って、ホームに降りた。
 4月を過ぎた暖かい季節の、穏やかな午後だった。
 うつ病も最悪の時期を脱した私は、希死念慮(死にたいと強く望むこと)に悩まされることも減り、新しく始めるリハビリに向けて、前向きな気持ちで家を出てきたはずだった。

 しかし、その平凡なホームに立った途端、ドッと鼓動が早くなった。
 その駅は古く、まだホームドアが設置されていなかったのだ。

 突然襲ってきた焦燥感に、私はひどくうろたえた。頭では死にたいと思っているわけではないのに、少しでもホームの端に近づけば、そのままふらふらと線路に吸い込まれてしまいそうな気がしてならない。電車の到着を告げるアナウンスが聴こえてくると、その予感はますます強まった。私は背中にじわっと冷や汗を掻きながら、手近に掴まれるものがないか咄嗟に辺りを見回し、すぐ横に立っていた鉄骨の柱を握り締めた。そして、
(今は死なない、今は死なない)
 頭の中でそう繰り返しながら、目の前を通り過ぎる電車がだんだんと速度を落とし、完全に停止するのを待った。やけに長い時間に感じた。

 うつ病の治療中には、しばしばこういう瞬間があった。先に引用した『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』で、先崎学九段は「脳からの信号のようなもので発作的に実行に移すのではないか」と考察していたが、確かにそうとしか呼べない感覚がある。

 また同書には、精神科医である著者の兄の発言として「時間を稼ぐのがうつ病治療のすべてだ」という言葉も出てくる。

 とにかく死なないこと。必要ならば薬を飲み、一日に何度となく、発作的に襲ってくる衝動を抑え込みながら、明日の朝までとりあえず生きる。うつ病の患者にとってこれが最も苛酷で、最も重要な戦いなのだ。
 そして、医者とはそれを支えるためにいる。

「修羅場をくぐったまともな精神科医というのは、自殺ということばを聞いただけでも身の毛が逆立つものなんだ。究極的にいえば、精神科医というのは患者を自殺させないためだけにいるんだ」

うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間(先崎学)

 本の中で端々に出てくるこの兄のことばが、私にはとても重要なものに感じた。彼は弟が治療に関して不安を訴えてくるたび、「必ず治ります」「必ず安定します」と短く答え、先崎九段はそれに安心を覚えたのだという。うつ病の患者はちょっとしたきっかけでネガティブなことを考えすぎてしまうからこそ、端的なことばが良かったのだ。
 そのほかにも、先崎兄氏はこんなことも言っている。

「うつ病は必ず治る病気なんだ。必ず治る。人間は不思議なことに誰でもうつ病になるけど、不思議なことにそれを治す自然治癒力を誰でも持っている。だから、自殺だけはいけない」

うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間(先崎学)

 うつ病は辛い病気だが死ななければ必ず治る。本の後半に氏は弟にもう一度このことばを繰り返している。

 それが正しい知見なのかどうか、私には何とも言えないが、実感として――というか、個人の体験として、「運よく生きていたら、いつの間にか少しずつ回復していた」という感覚はある。だからきっと、人によってはそういうこともあるのだろう。あるいは、現実がどうあれ、そう「信じて」治療をするという、信念の問題なのかもしれない。

 この『うつ病九段』という本自体も、とても面白かった。
 藤井聡太ブームよりも前、もうずいぶん遠い昔になった「ソフト不正使用疑惑事件」のとばっちりを受け、そこに監修していた『3月のライオン』の映画化が重なってしまった先崎九段が、うつ病を発症し、急性期を乗り切り、回復期末期へ向かうまでの詳細な記録で、病気の症状が患者をどう苦しめるのかといったことや、「振り子の揺れが小さくなるように良くなる」とよく例えられる回復の経過が、非常にわかりやすく書かれている。

 著者が体験したことと、自分が体験したことに重なることも多かった。ライン一本送る決断ができないというところまで決断力が低下し、夜眠っても二、三時間で目が覚め……といった辺りの典型的な症状から、ある程度回復してから湧き上がってくる不安まで。振り子に例えられるように、うつ病は回復し始めたら上り調子にどんどん良くなる、というわけじゃない。回復したらしたで、今までは見えていなかったものが見えるようになり、また別の不安に襲われたりする。
 先崎九段は「うつ病はひたすら耐える病気である。苦しさの度合いが違うだけで、最悪期も回復期も本質は変わらないのだ」と言うが、芯を食った言葉だと思う。
 その時、その時、「今ここ」の苦しさを乗り切る。
 うつ病の治療において、他にできることはないのだ。

 先崎九段が療養をしていた一年の間に、将棋界は藤井聡太フィーバーで大いに盛り上がっていた。将棋ファンを増やすために漫画の監修をし、宣伝のために奔走し、その結果体調を崩した先崎九段にとっては皮肉なことだったろうが、本人はそれも「万物流転」の結果なのだと言う。誰かが活躍している頃に誰かが病気になり死んでゆく。同じように自分が自分が棋士になった頃に生まれたような若手が活躍する頃、自分は病気になっている。歴史は繰り返す。物事は順繰りなのだ、と。

 同じ川に二度入ることはできない、とギリシャの哲学者は言った。
 時間の流れとともに万物は変化していく。うつ病になる前と、後とでは、もう同じ場所に戻ることはできない。それを受け入れるということが、一番最後に残された受容の段階なのかもしれない。

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