第三章 革命の防衛について
原文:http://www.spunk.org/texts/writers/makhno/sp001781/chap3.html
初出:Dyelo Truda(労働者の大義)、第25号、1927年6月、13~14ページ
(訳註:本文中の原註は、何故か上記の原文掲載サイトには載っていません。The Anarchist Library と Marxists.org も見たのですが載っていませんでした。元々の書籍には載っています。確認されたい方は、書籍では21ページ、書籍をPDF化したこちらのサイトでは25枚目をご参照ください。)
在外ロシア人アナキスト集団が発行した「アナキスト総同盟綱領案」について多くの地方の同志達の間で議論が交わされている。この文脈で、私は、幾つかの筋から革命の防衛という問題に特化した文章を書いてほしいと頼まれた。私は最大限真面目にこれを扱うつもりだが、その前に、これは「綱領案」の中心的問題ではないと同志達に伝える義務があると思う。「綱領案」の核心は、私達リバータリアン共産主義者の隊列に最大限一貫した団結を確立する必要である。実行前に必ずこの部分を修正し、完成させて頂きたい。さもなくば、勢力を結集しようと奮闘しない限り、私達の運動は、確実に、界隈をうろつく自由主義者と日和見主義者の影響に屈服してしまうだろう。こうした輩は、さすがにあからさまな相場師・政治的山師ではないにせよ、せいぜい無駄話を続けるだけで、私達の大いなる目的を達成すべく現場で戦えはしない。私達の闘争の正しさを本能的に信じ、革命を通じて可能な限り幅広い自由と独立を達成しようとしている人々と共に歩んで初めて目的を達成できる。それによって新生活と新社会が構築され、遂に個々人が一般善のために自分の創造的活力を無制限に行使できるようになるのだ。
革命の防衛という特定の問題に関して、私は、ロシア革命中のウクライナで私が直接経験したウクライナ勤労者の革命運動による不完全ながらも断固たる闘争に基づいて回答する。この経験から私は以下の3点を学んだ。第一に、革命の防衛は反革命に対する攻撃と直接結び付いている。第二に、革命の発展と強度は常に反革命の抵抗に規定される。第三に、上記2点の当然の帰結、つまり、革命活動は、武装革命分遣隊が採用する政治内容・構造・組織方法と密接に関係している。革命分遣隊は膨大な戦線で従来型の反革命軍と対決しなければならないのである。
敵との戦いの中で、ロシア革命は当初、ボルシェヴィキの指導による様々な赤衛分遣隊の編成で始まった。すぐさまこれらは敵の軍隊--具体的に言えばドイツ・オーストリア・ハンガリーの遠征軍--の圧力に耐えられないと判明した。理由は単純だった。ほとんどの場合、これらの分遣隊は何の全般的作戦指針なしに軍事行動をしていたからだ。だから、ボルシェヴィキは1918年春に赤軍の編成に転じたのである。
当時、私達はウクライナ勤労者から成る「自由大隊」結成を呼び掛けていた。すぐさま、この組織はあらゆる種類の内部挑発を乗り越えられないと判明した。政治的・社会的に適切な審査をせず、武器を持って戦いたいと思っているというだけで志願者を全員受け入れたからだ。だから、この組織が設立した武装集団は裏切りによって敵に引き渡され、外国の反革命と戦うという歴史的使命を貫徹できなくなってしまった。
しかし、「自由大隊」組織--革命防衛の第一線にいる戦闘部隊と言えよう--が最初に躓いた後も、私達は狼狽えなかった。この組織構成を幾分見直し、諸大隊を、混成型の--歩兵隊と騎兵隊で構成される--軽快なパルチザン分遣隊で補完した。こうした分遣隊の任務は、敵の戦線の遙か後方で軍事行動を行うことだった。この組織が威力を発揮したのは、1918年の晩夏から秋に、独墺遠征部隊とその同盟であるヘーチマン、スコロパードシクィイの軍団に対して作戦を行っている最中だった。
ウクライナ勤労者は、この編成を頑なに守って革命の防衛を組織し、反革命がウクライナの革命に投げた輪縄をその手中からもぎ取った。その上、革命の防衛に満足せず、できる限り徹底的に革命を貫徹したのである。(原註)
(原註:当時、ボルシェヴィキの軍事部隊はウクライナにいなかった。最初のボルシェヴィキ戦闘部隊がロシアから到着したのはずっと後になってからだ。到着後、彼等は私達と並行して前線を占領した。ウクライナ勤労者は自治的に、とりわけ国家主義の監督なしに、組織されていたが、ボルシェヴィキ部隊は一見してウクライナ勤労者に協力しようとしている風だった。しかし、実際には、自分達に有利になるよう勤労者をバラバラにして抹殺すべく裏工作を始めた。ボルシェヴィキはこの目標を達成するために何でも行った。軍用品と砲弾の形で支援を提供すると約束していたのに、その支援を直接妨害しさえしたのだ。まさにその時、私達は、戦線全体で広範な攻撃を行っていた。攻撃の成功は大砲と機関銃の火力に掛かっていた。実際、圧倒的に弾薬が足りなかったのだ。)
国内の反革命が国中に広がると、反革命は、武器や弾薬だけでなく、軍隊という形でも他国から支援を受けるようになった。それをよそに、我が革命防衛組織も規模を拡大し、同時に、必要に応じて新たな組織構成を取り、もっと適切な戦闘方法を採用した。
当時、最も危険な反革命戦線には、デニーキン将軍の軍隊が配備されていると分かっていた。しかし、マフノ叛乱運動は5~6カ月の間、彼の軍隊に屈しなかった。デニーキン配下の最も有能な司令官の多くが、敵から奪った武器しか持たない私達の部隊に手ひどく痛めつけられた。私達の組織は大きな貢献をした。戦闘部隊の自律性を踏みにじらずに連隊と旅団に再編し、一人の共同作戦参謀が調整したのである。参謀を設置できたのは、前線で敵と対峙している革命的勤労大衆だけでなく、前線の背後にいる革命的勤労大衆もが単一の軍事司令部が必要だと充分理解してくれたからに他ならない。さらに、勤労者達は、尚もグリャイポーレから来た無政府共産主義農民グループの影響下にあり、全ての人が新社会建設の平等に参加する権利を与えられるよう取り計らっていた。それはあらゆる領域への参加であり、そこには、新社会の利益を防衛する義務も含まれていたのである。
従って、デニーキン戦線はリバータリアン革命の存続を脅かしたが、住民全体が活発な関心を持ってこの革命を見守り、革命的勤労者は革命の防衛に関する私達の組織的見解を基に団結し、この見解を自分達のものにし、負傷者や疲弊者を安堵させるべく新しい戦士を定期的に流入させてマフノ叛乱軍を強化したのだった。
他の場所で、私達は、闘争の現実的必要に迫られて、全戦闘部隊の管理を分担する軍事的・組織的参謀を設立するようになった。革命的アナキストは武装革命闘争を戦略的に概観するこうした参謀の必要性を拒絶しているが、この観点に私自身が同意できないのは、この実践のためである。私は確信している。あらゆる革命的アナキストは、ウクライナの内戦で私が遭遇したのと同じ状況にいれば、当然、私達と同じことをせざるを得ないに違いない。来るべき本物の社会革命の過程で、こうした組織的諸原則に反駁するアナキストがいるとしたら、私達の運動には空虚なお喋りか役立たずの有害分子しかいないことになる。こうした輩は直ちに拒絶されるだろう。
革命の防衛という問題を解決する上で、アナキストは常にリバータリアン共産主義の社会的特徴に目を向けねばならない。大衆革命運動に直面したら、私達はその運動を組織する必要を認め、それにふさわしい手段を授けねばならない。そして、全身全霊で身を投じねばならない。さもなくば、私達は夢想家で理想主義者なのだから、勤労者の闘争、特に、国家社会主義者に従っている勤労者の闘争を邪魔してはならない。アナキズムは革命的社会運動であり、そうであり続ける。疑う余地などない。だからこそ、私は、今も今後も常に、充分しっかりした組織を持つことを支持している。そして、革命となれば、大隊・連隊・旅団・師団を設立し、ある時点で、組織監督参謀という形の単一地方指揮権の下で一つの共同軍勢へと融合するのである。参謀の任務は、武装反革命軍に対して全ての前線で行われている戦いを勝利に導くべく、闘争の要件と諸条件に応じた連合的軍事作戦計画の立案と地方軍勢の行動調整である。
革命の防衛は簡単な問題ではない:革命的大衆の多大な組織的献身が必要となるかもしれない。アナキストはこのことを自覚し、この任務で大衆を支援すべく準備しなければならない。