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ルイーズ゠ミシェルを思い出す:「今、私には革命しか残っていない」
原文:https://freedomnews.org.uk/2025/01/09/remembering-louise-michel-now-i-have-only-the-revolution-left/
原文掲載日:2025年1月9日
著者:モーリス゠シューマン
彼女の死後120年、パリ゠コミューンの英雄は今なおインスピレーションを与えてくれる。
マルセイユのホテル゠オアシスで、フランス人アナキスト・フェミニスト・コミューン参加者ルイーズ゠ミシェルは1905年1月9日に逝去した。この時までに、彼女は現代アナキズムの最も有名な人物の1人で、大抵、ピョートル゠クロポトキンやエンリコ゠マラテスタと同列に語られていた。今日、ホテルには彼女の思い出を称える記念プレートが掲げられ、パリ郊外の裕福な町ルヴァロワ‐ペレの墓地にある彼女の墓は巡礼地となっている。彼女の葬儀が行われた当時、この郊外の町は未だ革命の地と思われていた。
ルイーズ゠ミシェルは2度生まれた。最初は人として1830年5月29日に、そして再びパリ゠コミューンの文脈で神話として1871年に。後者の意味で、様々な政治運動が度々利用する非常に美化された形ではあるが、彼女は現在まで生きている。彼女は、コミューン以来、畏敬の念を込めて「赤い処女」と呼ばれ、その記憶は20世紀初頭から1つの政治問題になって来た。
フェミニストとアナキストの界隈で、彼女の人生に言及するのは、大抵、1871年から、もしくは彼女がアナキズムに転向した後からである。死後、彼女をアナーカフェミニズムの先駆者として位置付ける物語である。しかし、この描写は彼女の複雑さを--良い意味でも悪い意味でも--正当に評価していない。そうした記述で見落とされているのは、一つには、彼女が20歳で文学を志し、憧れのフランス自然主義作家ヴィクトル゠ユーゴーと文通し、彼女の作家としての正当性が明確に示されていたことである。他方で、彼等は大抵、パリ゠コミューン蜂起の当初、彼女がオーギュスト゠ブランキの流れを汲む権威主義的社会主義を支持していた事実を無視する。
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ルイーズ゠ミシェルは、ヴロンクール゠ラ゠コート(グラン゠テスト地域圏)で婚外子として生まれ、早くから文学に興味を持ち、ヴィクトル゠ユーゴーと交流を持った。ユーゴーは後に、『Viro Major』と題された長編詩を彼女に捧げた。彼女の著作には、中編小説(Le Grand Pan)・小説(Les Plus Forts)・戯曲(Le Voile du bonheur)がある。しかし、現在では、これらがほとんど読まれることも研究されることもなく、その一方で彼女自身はフランス近代演劇の主人公になっている。特に、ヴィクトル゠ユーゴーとの関係は、そうしたドラマ化の素材を提供している。
彼女は教師として働き、その一つ、現在も存在するモンマルトルの学校には有名な元職員を称える小さな記念碑がある。彼女にとって、教えることは単に生計を立てるための手段ではなかった。彼女は当時始まったばかりの女性教育に深く献身し、1852年にはフリースクール(ただし、これを現在の「フリースクール」の概念と混同してはならない)を開校した。残念ながら、彼女の具体的な教育方法についての記録はほとんどなく、ほぼ未解明のままである。教育者ルイーズ゠ミシェルは革命の神話によって影が薄くなっている。
普仏戦争の余波でパリ゠コミューンが1871年に蜂起した時、彼女は最初からその場にいた。男性の制服に身を包み、彼女はコミューンの女性大隊を率い、ピガールとクリシー広場周辺地区(後に、皮肉なユーモアでよく指摘されるように、パリの歓楽街になる)を防衛した。
コミューンそのものは僅か71日しか続かなかったが、もう一つの社会がどのようなものか・どのように機能するか示した。蜂起が鎮圧された後、彼女は、即刻射殺された他の多くのコミューン参加者とは異なり、当時フランスの植民地だったニューカレドニアへの流刑を裁判所に宣告された。彼女の7年間の亡命は1873年に始まった。
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男性の制服を着ること自体が政治問題になった。裁判中に彼女にかけられた罪状の1つは、男性の服を着たことで、異性装をしたというものだった。これは些細なことに思われるかもしれないが、彼女の人生をクィア‐フェミニスト的に読み解く文脈からすれば、些細とは言い難い。彼女は、自分がその制服を着たのは1日だけだと主張して抗弁した。
一般に、彼女がアナキストへと変貌したのは流刑地への旅に出た頃だとされている。この時期、彼女は、権力の問題、特に、その腐敗作用について熟考した。彼女の結論は、一旦権力を手にすれば、誰もその誘惑から逃れられないというものだった。そして、目標は権力掌握ではなく、権力と戦うことでなければならないと推論したのである。
「私は、同志達が行動しているのを見て、徐々に確信するようになりました。最も公正な人であっても、権力を行使するようになると、かつて敵対して戦っていた悪党と同じようになる。私は、いかなる形態の権力も自由と調和できないと分かったのです。」
植民地で、彼女は再び教師として働き、地元の先住民カナック族にも教えていた。コミューン参加者の多くが先住民に対して人種差別的偏見を抱いていたが、ルイーズ゠ミシェルは彼等を平等な存在と見なし、人種的な区別はしなかった。しかし、彼女の1886年の回想録には、この頃について人種差別的意味合いのある言葉が含まれている。
元コミューン参加者に恩赦が与えられた後、彼女は1880年11月9日にフランスに戻り、ノルマンディの港町ディエップで下船した。そこには大群衆が彼女を出迎えるべく待っていた。その後、1888年に、フランスの詩人で仲間のコミューン参加者ポール゠ヴェルレーヌが彼女に詩を捧げた。ディエップ自体には、かつてそこに足を踏み入れたコミューン参加者の足跡があちこちに残っている。
1886年、彼女の回想録が出版され、彼女の作品で最も広く読まれるものとなった。その中で、彼女はコミューンの発展と経過を生き生きと詳述している。その遺産自体が、社会主義理論家とアナキスト理論家の間で論争の種となっている。
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彼女の亡命生活、つまり彼女の長年にわたる流刑は、ルイーズ゠ミシェルを打ちのめさなかった。全く逆だった。彼女の回想録に、恐らくこの情況における心情を最も良く表していると思われる文章がある。「今、私には革命しか残っていない。」つまり、彼女は一種の職業革命家に変貌したのだ。情熱に満ちた彼女は、フランスで未だ始まったばかりのアナキズム運動に没頭し、その思想を広め、エリゼ゠ルクリュ・マラテスタ・クロポトキンのような人物と文通し、死ぬまで講演を続け、プロパガンダ的な中編小説・小説・戯曲を書き続けた。
フランスのアナキスト、セバスチャン゠フォールは1935年の『ル゠リベルテ―ル』誌で彼女の重要性を要約した。「コミューンの歴史は、美しく高貴な人物の宝庫である。この素晴らしい展示室の中で最も人気があり続けているのは、私達の親愛なるルイーズ゠ミッシェルの部屋だ。」