コミュナリズム:解放的代案(11)
倫理的経済
生態調和経済は、社会政策同様、市民の直接管理下に置かれねばならない。実際、経済的生産の手段--土地と設備--は議会の領域に置かれ、地域の経済統合は連邦を通じて達成される。議会が行う経済的決定の範囲には、とりわけ、その年に様々な物品をどれほど生産すべきか、そして、どのテクノロジーを使用可能と見なすべきかが含まれる。物品の生産方法・サービスの提供方法の詳細は、農場・作業場・病院といった仕事場で業務やメンテナンスに時間を割いている人々が決めて実行すべきである。議会は何をすべきかを決め、仕事場はどのように行うべきかを決めるのである。(原註49)
倫理的経済は、競争市場の中で商品を割り当てるのではなく、協力して計画する経済である。先進的ソフトウエアシステムは、民主的経済計画に大いに役立つだろう。製造されるあらゆる物品--他に類のない手作りものは除く--の情報がこのシステムに入力されるだろう。この入力事項には、物品の資材要件と製造手順を詳しく書いたドキュメントが添付される。それに加え、生産に使われた具体的労働時間数・希望量に対する地元の生産能力の現状・生産に必要なエネルギー量・製造による社会と生態系への影響の質的査定といったアセスメントも盛り込まれる。年次経済計画会議で、集団単位としての当該自治体はどの品目--公共建築物のような--が必要なのか提案し、決定する。さらに、個人や世帯は、その年に予想される消費計画を提出しなければならないだろう。最初はゼロから行うが、その後は毎年修正できるようになる。この計画は、必要な物品の詳細ではなく、そのカテゴリーを--何足の靴、何キロの果物といったように--量で表す。ソフトウエアは、地元で何を生産できるのか・どの品物を連邦内の他の場所から入手しなければならないのか・どれほどの労力が必要になるのかを評価するために、全ての人の情報を集める。そして、品質に関して使用者が提出したメモを箇条書きにして報告書を編纂する。利潤ではなく欲望のために生産する経済、そして消費主義ではなく創造性と協力を指向する社会では、要求される総消費量が生産能力を下回る見込みが高い。それにも拘わらず、要求が過剰だと分かったときには、生産過剰分を明らかにし、人々にそれに応じて自分達の計画を修正するよう求めることができる。このプロセスは、実行可能な集団的計画が選ばれるまで、繰り返し行われるだろう。(原註50)
コンピュータモデルを使った経済計画は、個々の生産領域で必要な労働力を推計するはずである。作業可能な人達は、民主的議会の目標を達成するための助力を求められる。人は自分が選んだ必要作業を行う時間を任意に決めて構わない。必要な作業課題を完遂するためのボランティア活動の時間は、自ずと決まるはずである。その作業をしようとする人達は、議会の意志決定に参加したと思われる(少なくとも、参加する自由を持っていた)からである。さらに、その人達は、協力的コミュニティの一員であり、お互いに顔見知りであろう。充分な数のボランティアが現れない情況は、強制的ではないやり方で解決できる。最初に、議会は、進展情況を考慮し、当該の目標が今も望まれているのか再評価する。望まれていると議会が結論を下した場合、人々に進んで手助けするよう再度依頼できる。このやり方でも上手く行かない場合、この活動に付随する宴会や祝賀会を企画して、活動がもっと魅力的になるようにする。さもなくば、この計画は、最終的に、充分な援助者が現れるまでキャンセルされる。
テクノロジーの解放的利用で製造業の徹底的分権化が可能になるが、自治体は様々な物品--原料も、様々な農産物や製品も--について常に他の自治体と相互依存関係を保持するだろう。こうした地域社会は、通貨取引というブルジョア構想を行わなくてよい。その代わり、必要な物品--最小限の肉体労働で生産される物品--を受け取った地域社会は、手作りの贈答品で返礼したり、時折使節団を送って音楽を演奏したり宴会を催したりして、感謝の意を表明し、互恵関係を築くだろう。
社会的自由というコミュナリズムの概念を踏まえ、生態調和社会での物品の分配は、生産への貢献ではなく、欲望に応じて行われねばならない。地元議会や連邦の能力の範囲内で、個々人の物質的要求は、その人が決定した欲望に応じて満たされねばならない。買いだめと派手な消費は消滅するだろう。誰もが他の人と同じ物品を持ち得るからだ。もっと重要なことだが、人々は、広告主による心理的操作から自由になり、共同社会の協力・連帯・創造的表現を指向する文化に浸りきって生活するだろう。個々人は、バランスの良い成熟した自己--自分の生活を管理し、自分の欲望を満たしてくれるテクノロジーの知識を持ち、生物多様性の重要性を強く意識し、思いやりある地域社会の認知された一員--を体現するだろう。この経済は、志願労働システムに基づいて民主的に管理され、欲望に応じて人々に供与するため、完全に倫理的だと見なされるはずである。(原註51)
原註49.ブクチンはこの経済を「道徳的経済」と呼んでいた。しかし、私達は、ブクチン自身が行った倫理と道徳の区別を鑑みれば、「倫理的経済」と呼ぶ方が適切だと考えている。ブクチンにとって、道徳は地域社会による合理的分析に基づかない規範である。逆に、倫理は、善悪の問題を合理的に探求し、議論する。
・The Ecology of Freedom - p.72-73
・Bookchin, Murray, The Modern Crisis (Philadelphia: New Society Publishers 1986) - 'Market Economy or Moral Economy?' p.77-98 を参照。
・The Politics of Social Ecology - p.111-120
原註50.これらの考えはマイケル゠アルバートとロビン゠ハーネルから一部拝借している。彼等は「参加型経済」という民主的経済計画システムを提唱し、開発した。
・Albert, Michael, Parecon: Life After Capitalism (London and New York: Verson 2003) - p.118-147
原註51.Remaking Society - p.96-100(「エコロジーと社会」、126~132ページ)