私達は破壊者、創造力が私達の行動・反逆だった
原文:https://freedomnews.org.uk/2024/08/01/we-were-disruptors-creativity-was-our-action-and-rebellion/
原文掲載日:2024年8月1日
サッチャー政権下の英国でグレー゠オーガニゼーションの逃亡劇は美術界に急進的アンダーグラウンドを波及させた。
「アート゠テロリスト」を自称する「グレー゠オーガニゼーション(GO)」は1983年に設立された英国のアート集団である。このグループはイーストロンドンとソーホーのアナーコパンク゠シーンから生まれた。アートの世界に大金が入ってくる前、GOは匿名性を受け入れ、アーティスト名士というアイデンティティを拒否した。企業のヤッピー文化とソヴィエトのモノカルチャーを混ぜ合わせ、冷戦時代とサッチャー政権下の英国の現状を体現していた。
GOは、画家のトビー゠モット(共同創設者でありスポークスパーソン)・ダニエル゠サコッチオ(旧姓クレッグ)・ポール゠スペンサー・故ティム゠バークで構成され、当時ロンドン美術界の中心地だったコーク゠ストリートのメイフェア地区で数々のギャラリーを襲撃し、悪名を轟かせた。彼等は、バケツ一杯の灰色ペンキで武装し、新進アーティストへの支援不足に抗議してギャラリーの窓にペンキを巻き散らし、結果的に、ロンドン中心部からの出入り禁止命令を受け、最終的にはニューヨークへの移転を余儀なくされた。その他にも、オリンピアで開催された「国際現代アートフェア」に乱入し、さらに、J.S.G.ボッグスがキュレートした「ザ゠マネー゠ショー」に参加して、結局ロンドン警視庁の偽造捜査班に作品を没収された。
GOは集団として活動し、その作品はデ゠ラ゠ソウル・デレク゠ジャーマン・ギルバート&ジョージ・ノイエ゠スロウェニッシェ゠クンスト・ミュートイド゠ウェイスト・サイキックTV・サバイバル゠リサーチ゠ラボラトリーズ・ヨウジヤマモト、そして(物議を醸したのだが)労働党やスウォッチとも作品を制作した。
GOの広範なアーカイブには、オリジナル作品・貴重な資料・結成から解散までの活動を捉えた独占映像があり、現在、A/POLITICAL https://a-political.org/コレクションの一部になっている。そのディレクター、ベッキー゠ハグパナ‐シルワンが最近、急進的アンダーグラウンドと美術界の間に広がる乖離の中で、グループの逃避行とグループが創造した論争についてトビー゠モットと話した。
学校で、かなり早い時期から、「アナキスト゠ストリート゠アーミー(ASA)」を結成しましたね。
ASAはGOの前身だね。1970年代後半と1980年代前半のこの時期、クラスやポイズンガールズなんかのギグに行っていた友達と結成したんだ。アナーコパンク゠シーンが大きくなり始めた頃だ。もっとも、私達はそれほど長く関わらなかったけど。ASAを結成した時、私達は独特なロゴを作って、黒い革ジャンの背中に描いていた。当時勢力を拡大していたサッチャー政権に対する戦闘的反ファシズムの反対派の一種だと自認していたのさ。
ロゴと服は別にして、どうやって反ファシズム運動にのめり込んだのですか?
1977年当時以降のパンク゠シーンにいた多くのキッズのように、私達も反ファシストで、いろんなデモに参加した。大抵、アナキストがいる後ろの方にいたね。ロンドンの「ロック゠アゲンスト゠レイシズム」カーニバルなんかにも行ったよ。こうした政治的関心から、ホワイトチャペル゠ギャラリーの脇の路地にあるフリーダムの書店も訪ねたんだ。私が読んでいた『ブラック゠フラッグ』があったよ。
GOを始めた1980年代初頭のアート゠シーンの文化的背景や同時代のアーティストについてもう少し詳しく説明してもらえますか?
その後、サッチャーの英国の環境でアートを制作しようとGOを結成した。1980年代初頭当時のロンドンにはヒッピーのオルナタティブ運動の名残があって、住宅協同組合を作っていた。GOは共同住宅に引っ越した。私達のコミュニティ行動への関心は、共同生活の情況や他のアート集団との活動・交流で、さらに高まったんだ。皆、当時の政府に反対だったしね。今と違って、活動していたスタジオから、よく行っていたパブやクラブまで、皆同じ考え方だったと言える。
私達はイーストロンドンのボウに住んでいた。ハックニーにはボウ゠ガムラン゠アンサンブルとスロッビング゠グリッスルのような音楽集団がいて、彼等はサイキックTVへと変異した。川の南側にはテスト゠デパートメントがいて、アーティスト゠デュオのギルバート&ジョージが作品を共同制作していた。
この時代に何故あのようなコミュニティ行動の美学が生まれたのは分からないが、私達もその一部だったようだね。当時は、集団で制作するのが不自然だとは思わなかった。当時のロンドンは党派だらけだったよ。政治グループのSWP(社会主義労働者党)・WRP(労働者革命党)・NF(ナショナルフロント)・英国運動とか、サブカルチャーのパンクス・スキンヘッズ・ニューロマンティックスとか。だから、共通の大義で結束するのは自然な成り行きのように思えたんだ。
あなたは、ソヴィエトの詩人で劇作家のマヤコフスキーのスタイルを選びましたね。このボルシェヴィキ美学を借用した理由を説明してもらえますか?
私達のスタイルは、英国のエスタブリッシュメント紳士・新興の資本主義ヤッピールック・ソヴィエトのモノカルチャーをミックスしていた。構成主義とソヴィエト芸術にも興味があった。目的を持ったグループが制作していたからね。もちろん、マヤコフスキーの偶像的イメージも視野に入っていたよ。妥協のない美学は魅力的だった。同時に、公民権を剥奪された米国人、多くの人がネクタイをしなかった大恐慌時代のイメージもそうだ。私達にとってネクタイはエスタブリッシュメントの象徴だったから、私達はネクタイをしなかった。
私達が取り入れたのは、スキンヘッドの髪形に、政治局員が着るグレーのビジネススーツ、ボタンを上まで留めた無地の白いコットンシャツだった。特にマヤコフスキーに触発されたわけではないけど、彼は確かに私達に影響を及ぼした一人だ。
芸術界に対するあなた方の影響とアプローチは反エスタブリッシュメントでしたが、同時代のアーティスト達が積極的に体制に反対する活動をしていた時に、あなた方は有名セレブやミュージシャンとコラボしていました。あなた方は独自のロゴなどを持つブランドになりました。この一見複雑に見える商業主義との絡み合いを説明してもらえますか?
知名度が上がるにつれて、特に、リン゠フランクス(独創的なテレビ番組『アブソリュートリー゠ファビュラス』のPRエージェント社長のモデルと言われている)が声を掛けてくるようになった。彼女はボディ゠マップ・キャサリーン゠ハムネットなど、総じて当時の政府に反対していたアウトサイダー達の代理人となっていた。当時は、現在のような「コラボ」をしているなんて思っていなかったけど、確かに私達はスウォッチや労働党と仕事をした。実際には、途中で機会が現れたというだけで、全体的計画なんてなかったと思う。私達はまさに瞬間を生きていたんだ。ギルバート&ジョージが私達を「存在者」と呼んでいたようにね。
また、私達は不況の中で生きていた。金融の中心地シティ゠オブ゠ロンドンは活況を呈していたけど。米国のキース゠ヘリングやイーストヴィレッジのアート゠シーンなどが魅力的で、そこに参加したかった。で、お金がなければ何もできないと気付いて、自分達のために自分達のために一種の繁栄も求めたんだ。
それで、ロンドンを離れて華やかなニューヨークへ行ったと・・・
1985年のニューヨークシティは、映画の『ウォリアーズ』みたいだった。私達はシヴィリアン゠ウォーフェア゠ギャラリーと提携していた。イーストヴィレッジのロウアーイーストサイドにあったんだけど、そこは新興地区で、決して治安が良いとは言えなかった。そのため、荒涼とした都市景観の中でギリギリ生きるという雰囲気が生まれたんだ。建物の半分は廃墟で落書きだらけだったが、そんなことはどうでもよかった。私達が来たイーストロンドンと雰囲気はさほど変わらなかったし。
ナイトライフはロンドンよりずっと遅くまで続き、シーンの大きな部分を占めていた。そこで多くの繋がりが生まれた。シヴィリアン゠ウォーフェアは新進気鋭のアーティストを紹介していて、名前の通り妥協を許さなかったし、イーストヴィレッジ゠アートシーンの最先端だった。GOにとって完璧なプラットフォームだったんだ。
商業的に成功し、注目されるコラボレーションもしていたのに、何がGOを終わらせたのでしょうか?振り返ってみて、グループが目指したことを全て達成できたと思いますか?
活動全体を通して、多くの浮き沈みがあった。GOが営利目的で会社を設立するなんて考えたことは一度もない。手に入れた利益は全てアート創作に還元した。コラボレーションは、今でこそ成功視・重要視されているけれど、当時は活動の一部に過ぎなかった。だから、全体としては、成功の頂点に達したというより、ジェットコースターに乗っていたと言える。
活動が終わる頃には、私とポール゠スペンサーの二人だけになっていた。ポールは、彼の都合でロンドンに戻ると決めて、ポートベロー通りに「ウォン゠シング゠ジョーンズ」という店を構え、世界中を旅して見つけた工芸品を扱う貿易会社を始めた。
私はアーティストやアートディレクターとして仕事を続けて、ロスアンジェルスに移ったけれど、結局、ロンドンに戻った。GOは何の目標も持たずにかなりのことを成し遂げたと言える。私達は破壊者であって、その瞬間を大切に生きていて、行動と叛逆の形で創造力を発揮したのさ。