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第十三章 アナキズムと現代

原文:http://www.spunk.org/texts/writers/makhno/sp001781/chap13.html
初出:Dyelo Truda(労働者の大義)、第6号、1925年11月、6~7ページ

アナキズムは、単に人間の社会生活を扱う教義ではない。これは、政治学の辞書に載っている狭義の意味で、時として会合などでアナキズムを宣伝する演説者もこのように述べる。だが、アナキズムは同時に、円熟した個人としての人の存在全てを包含する教義でもある。

その総合的世界像を精緻化する中で、アナキズムは非常に具体的な課題を自らに課してきた。現在も今後も、ブルジョア資本主義の科学と技術が提起すると思われる雑多な障害物を排除しつつ、世界を全体として包含するのである。その目的は、世界の存在に関する可能な限り網羅的な説明の提供・人間に立ちはだかるあらゆる問題の最善の解決である。このアプローチの手助けにより、人は自分に本来内在する--少なくとも、私はそう仮定している--アナキズムの意識を、その一部が常に出現し続けるほどまで自分のものにできるようになるはずである。

個人の意志を基本として、人間はリバータリアン教義を現実生活に体現できるようになり、自分の胸中から服従精神を全て追放する途を明らかにできるようになる。

アナキズムは限界なく発展する。アナキズムは、自身を閉じ込め、固定しかねない堤防を認めない。人間存在と同じように、その熱望と目的に決定的公式などないのである。

私の考えでは、アナキズムの理論的前提に定義されているように、万人が完全な自由を享受する権利だけが、人間が発達し続けながら、程度の差こそあれ、完全に開花するための手段になり得る。人為的に押しつけられている服従精神を人間から追放しながら、アナキズムは、その後に目標全ての達成に向けて前進する人間社会の基調思想となる。

現在、アナキズムはなおも理論的に脆弱だと見なされている。さらに、頻繁に誤って解釈されていると主張する人々もいる。しかし、アナキズムの支持者たちはアナキズムについて多くを語る。その多くは、絶えずアナキズムを口にし、積極的に闘い、アナキズムがうまくいったためしがないと時折不満を述べている(この最後の不満について言えば、この態度は、現代社会での足場を手に入れる上でアナキズムに不可欠な社会的手段の研究を通じて考案できていないためだと思う)。

私達一人一人は、真剣な集団活動という形で全ての活動的アナキストの結束が必要だと認めている。従って、こうした同盟に反対だと宣言する者が私達の隊列にいるならば、かなりの驚きである。解決すべき問題は、唯一、こうしたアナキスト同盟がどのような組織形態を取り得るのかということだけだ。

個人的に私は、全アナキスト勢力の集団的規律と方向性の一致という原則に基づいて構築される組織を最も適切で最も必要だとして受け入れたい。つまり、加盟した全ての組織が社会的・革命的目標を共有するだけでなく、目標達成の手段についても合意し、相互に連携するのである。

地域組織の活動は、可能な限り地域の諸条件に合致するよう調整される。ただ、そうした活動は、必ず、全国を網羅するアナキスト同盟の全般的組織実践傾向に合致していなければならない。

政党だろうが何だろうが、この同盟がどう自称するかは二次的な問題に過ぎない。肝心なのは、全てのアナキスト勢力が敵に対して統一した共通の実践に集中しなければならない、という点にある。勤労者の権利を求めた闘争・社会革命の実行・アナキズム社会の樹立を推進するために!