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「吉原はこうしてつくられた」西まさる著(その2)

「吉原はこうしてつくられた」西まさる著・新葉館出版2018年5月発行

著者は1945年生まれ、「地図のない町」等多くの著書の作家・編集者。現在、西まさる編集事務所主幹、はんだ郷土史研究会代表幹事を務める。

本書は吉原が作られた経過を述べるとともに、この地域が遊女、非人、芸能人など、人々から差別された賤民らが集まった区域であると言う。その代表の一人が車善七である。

非人頭・車善七とは江戸時代、非人のトップとして浅草で非人を統括した人物が代々名乗った名前である。「非人」は「貧人」がなまったものという説がある。非人は江戸時代の賎民身分で、穢多頭の矢野弾左衛門の配下とされた。

幕府は、農民、町人等が人別帳から外れ、路上生活者となった者をエタ頭、非人頭に捕まえさせた。非人小屋に集め、引き取り先が判明した者は郷里に戻し、不明の者は賤民身分に落とし、非人として管理した。エタとの大きな違いは非人は定職を持つことができず、非人小屋頭の下で乞食(勧進と言った)、ごみ拾い等で生計を維持、幕府またはエタ頭の指示で牢屋人足、処刑手伝いを担当した。

初代・車善七は三河国渥美村(現・愛知県渥美郡)の出身という。家康江戸入国時には隅田川のほとりに住んでいた。他方、車善七の先祖は常陸国の佐竹藩の家臣であったとういう説もある。

善七の父が佐竹藩を関ヶ原の戦いで西軍に味方させたため、父は磔になる。父の仇として家康を狙ったが失敗、家康に許されたが人界を辞して、乞食の群れになったと言う説である。この説を明治維新後、新聞記者・福地桜痴が小説に書いている。信じられる話ではない。

江戸には、当時、非人頭が4人いた。車善七以外は、その支配の土地の名を取って呼んでいる。車善七、品川松右衛、深川善三郎、代々木久兵衛の4人である。

これらの頭の下に、五、六千人の非人が組織された。そのうち車善七が7割の勢力を有した。幕末、天保14年、手下人数が記録に残っている。それによると、車千代松3,946人、松右衛984人、善三郎441人、久兵衛272人となっている。

車善七は新吉原遊郭の裏に住居を構え、江戸の非人たちを管理していた。なぜ吉原の裏なのか?吉原で遊び、身を崩すと非人になるとわかるよう見せしめという説。しかしそれは違う。理由は彼らの仕事の多くが紙くず拾いのためである。非人は市中の紙くずを集め、職人が漉き直して再生紙を作り、落とし紙として再利用していた。

江戸時代、紙は高価で、貴重品である。遊郭吉原内の清掃を任された非人たちは吉原で紙集めをした。吉原は貴重な紙を多く使用した。なぜ多く使用するか?「ある事」の後始末に紙を使用した。江戸市中で拾い集めた紙くずと合わせて、善七の小屋頭の所に集積した。当時、浅草製の落とし紙(トイレットペーパー)は「浅草紙」と呼ばれ、有名であった。

吉原遊郭の傾城屋(遊女屋)の経営者は「亡八」と呼ばれた。すなわち、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つを忘れた人、いわば非人と同じと言う意味である。傾城屋も非人と同様に、エタ頭・矢野弾左衛門の配下とされている。

(1657年)明暦3年「明暦大火」で江戸市中の6割が燃え、江戸城天守閣も焼け落ちた。10万人以上の死者が出たと言われる。当時、江戸の人口は約30万人、死者の多さが理解できるだろう。

幕府重臣・保科正之は市中視察をして、町奉行に焼死体の埋葬を命じた。埋葬場所は隅田川の向い岸の本所回向院、命じられたのは非人頭・車善七である。車善七は数万の死体を運び込み埋めた。回向院の過去帳では2万人あまり、実際には5万人前後と言われている。この時も善七は、エタ頭・矢野弾右衛門の指示、配下の下で働いた。

「江戸の貧民」の著者・塩見鮮一郎氏によると、エタ頭・矢野弾右衛門の支配下の職能集団は次のとおり。「長吏・座頭・舞々・陰陽師・壁塗・土鍋・鋳物師・辻目暗・非人・猿引・鉢叩・弦指・石切・土器師・放下・笠縫・渡守・山守・青屋・坪立・筆結・墨師・関守・鐘打・獅子舞・蓑作・傀儡師・傾城屋」以上、28種を挙げている。賤民内の身分の上下の順列もこの順番になっている。

明暦の大火から約70年後、享保5年(1720年)非人頭・車善七はエタ頭・矢野弾右衛門の支配下から脱するため、矢野弾右衛門浅之助に反抗し、訴訟となった。3年にわたる訴訟の間に善七本人は死亡し、奉行所は弾右衛門の側に立ち、裁判を引き継いだ非人頭7人は全面的に敗北した。

当時、賤民は賤民が治めるのが原則、その原則では弾右衛門が賤民の裁判を行う。形式的には町奉行が判決を下すが、弾右衛門の意向を聞いて判決を決めるため、非人側が負けるのは当然である。7人の組頭うち3人は死罪、残り4人は永牢と決定した。善七の息子・菊三郎は、当時13歳と幼く、罪は問われず、死亡した先代の車善七の跡を継いだ。

江戸時代中期になると江戸市中も全国から無宿人が集まり、治安不安定のため「人足寄場」が作られ、非人等の寄場である「溜」も設置された。これが「浅草溜」である。いわゆる非人の授産更生施設である。

明治4年になると解放令が発令され、エタ、非人などの賎民身分が廃止となった。エタ頭・矢野弾右衛門は「弾直樹」と名前を変え、車善七も「長谷部善七」と名乗った。明治5年には「浅草溜」が廃止され、翌年に「溜」の収容者は上野の護国院に移された。東京都はここを貧民の収容所として、名前を「養育院」と言った。


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