「民衆暴力・一揆・暴動・虐殺の日本近代」藤野裕子著
「民衆暴力・一揆・暴動・虐殺の日本近代」藤野裕子著・中公新書2020年8月発行
著者は東京女子大現代教養学部准教授の歴史学者。
著者は「民衆」という言葉が国家権力に対する反語と使われ、戦争という国家暴力の被害者と見なされることに疑問を持つ。民衆自身が主体的に暴力をふるった近代日本の歴史があったこと明らかにする。その根底の暴力をふるう民衆の論理に迫る。
出発点は江戸時代百姓一揆、これは仁政を求める訴願から幕末の世直し一揆、甲州騒動、武州世直し一揆、新政府反対一揆に繋がる。新政府反対一揆は地租改正反対であったものが、美作一揆のように賤民廃止令に反発、部落民攻撃に変質した。
二つ目は明治の自由民権運動の中で起きた秩父事件。困民党総理・田代英助を中心とした世直し一揆である。西南戦争後の松方デフレによる増税、地租改正による農民困窮から借金棒引きを要求した。
しかし東京鎮台出兵で10日余りで騒動は終息。死刑7名、重罪300名、処罰者約4,000名の結果となった。原因は二宮尊徳的節約を推進、貧困を救済せず、個人の生活態度、自己責任を求めた政府の対応への反乱。
三つ目が明治38年9月5日、日露戦争スポーツマツ条約調印破棄政治集会で起きた日比谷焼き打ち事件。この騒動は主催者の意向を無視、民衆の自発的都市暴動である。二晩で警察署、派出所214ケ所が焼失した。
根底に戦争の犠牲に対する賠償金の少なさ、厭戦気分がある。戦争遂行の国家、国民を一体化させたメディア報道、提灯行列で生まれたナショナリズムが騒動を加速させた。騒動の主体は重工業化した都市労働者、商工者の雇人・職人。政治の思想性でなく、都市エネルギーによる新しい民衆暴力である。
騒動の教訓から国家は青年団、在郷軍人会による自警団を創設した。即ち民衆の警察化である。この自警団の創設・民衆の警察化が四つ目の関東大震災朝鮮人虐殺に繋がる。
虐殺は震災当日、荒川四ツ木橋で始まり、墨田区から千葉、埼玉まで拡大。正確に殺害された人数は不明、吉野作造の調査では2,613人、朝鮮同胞慰問団調査では6,661人と言われる。国家、公権力側が虐殺に積極対応したこと。厳戒令は自警団による殺害を容認する効果を生じさせた。
民衆暴力は国家に抵抗する暴力行使もある。しかし民衆が被差別部落民などを抑圧する暴力行使もある。この二面性を知るべきだ。
民衆暴力はその時期の政治、社会の権力関係を反映する。同時に民衆内部の権力関係も反映される。単なるユートピア的世直し願望を民衆暴力とみるのは一面的過ぎるだろう。抑圧された人々の怒りが抑圧する権力者に対してでなく、より弱く、抑圧される差別対象者に向かう悲劇をどう考えるべきだろうか?