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「島原の乱」神田千里著

「島原の乱・キリシタン信仰と武装蜂起」神田千里著・講談社学術文庫2018年8月発行

著者は1949年生まれ、東洋大学名誉教授。専攻は日本中世史、中世後期宗教社会史、「宗教で読む戦国時代」など多くの著書がある。

5月に雲仙島原の原城跡に行ってきた。あの狭い城に3万7千人の一揆軍が籠城し、落城した。幕府鎮圧軍は12万5千人を動員し、攻撃した。全滅覚悟の籠城戦である。幕府軍の死傷者は1万2千人余り、攻撃部隊の1割が損傷した。その攻防の苛烈さに恐怖を感じた。

本書は、島原の乱を単に百姓民衆一揆でなく、宗教戦争の立場で描く。一揆の中心は殉教を選択する強固なキリシタンではない。一度は棄教し、再び復教した多くの「立ち帰りキリシタン」である。

その意味で普通の領民である。しかも庄屋、名主まで含めた村民全員が一揆に参加した。軍事指導者は旧有馬家臣の牢人たちであり、彼らも有馬家時代にはキリシタンであった。

戦国の戦いの経験のある牢人たちが農民たちを指導し、島原城、天草の富岡城を落城寸前まで追いつめている。江戸時代とは言え、戦国の百姓、足軽の戦いの延長線にあったと言える。

当初の幕府鎮圧軍大将板倉重昌、副将石谷貞清は、家光より老中松平信綱が派遣されたこと知って、一揆早期殲滅の功を焦り、寛永15年正月元日に総攻撃をかける。事前に知っていた一揆軍に反撃され、板倉重政は討ち死にする。

百姓一揆に対する安易な考え方と幕府軍の不統一が原因である。松平信綱は慎重な戦いに変更、弾薬、食料欠乏までの長期戦へ持ち込む。1638年(寛永15年)2月28日総攻撃によって、原城は落城した。一揆軍の大将天草四郎以下、籠城軍全員が皆殺しとなった。

百姓たちの武器は石や材木、城からの投石が中心である。幕府軍は大砲、鉄砲中心、オランダ船からの支援砲撃も活用した。パレスチナガザのハマスへのイスラエル爆撃、戦車攻撃、米国の武器支援に似ている。

天草の乱の特徴は、一向宗、真言宗の僧侶に対し、改宗を武力で強制し、民衆にも攻撃を加えた点にある。従前のキリシタンの殉教の戦いではなく、有馬家時代と同様のキリシタン国家の建設に目的があった。ここに単なる殉教戦争と異なる側面を持っていた。

立ち帰りキリシタンは、島原藩松倉勝家、唐津藩寺沢堅高の圧政、重税に対する反抗ではなく、圧政、重税を招いたのはキリシタンを棄教した自身への罰であると考えた。故にキリシタンの国作りのために再度キリシタンに戻り、新たなキリシタン国家作りの戦いを開始したと本書は述べる。

天草の乱に対する新しい歴史視点である。キリスト教は自殺を認めない。自殺せず、自ら殺されることを求める。天草の乱のように異教徒に強制改宗を求め、暴力をふるうことは本来あり得ない。ここに島原の乱の従来の宗教戦争との大きな相違があると本書は断定する。

天草の乱後、幕府はポルトガルと国交を断絶、オランダ商館は出島に押し込め、キリシタン取締りを強化した。私たちは現代においても仏教、神道含め、宗教から解放されていない。「宗教が社会現象である以上に、社会の方こそ宗教現象に近い」とマックス・ウェーバーは言った。その通りだろう。

愛知県西尾市の板倉家菩提寺に板倉勝重、重宗、重昌ら各板倉一族の墓がある。その中に「島原殉難諸士之墓」もある。


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