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「吉原はこうしてつくられた」西まさる著
「吉原はこうしてつくられた」西まさる著・新葉館出版2018年5月発行
著者は1945年生まれ、「地図のない町」等多くの著書の作家・編集者。現在、西まさる編集事務所主幹、はんだ郷土史研究会代表幹事を務める。
江戸中期明暦の頃、江戸の町から遠く離れた荒地、湿地帯の土地に中心部から追い出された人達の集落ができた。芸人たちの芝居町、賤民とされた車善七らの非人集落、そして吉原遊郭である。
なぜこのような吉原遊郭が作られたのか?著者は、新吉原建設に尾張国知多半島須佐村(現・愛知県知多郡南知多町豊浜)の土御門社の神主・松本清三郎が大きく関与しているという。
松本清三郎は知多半島の土御門家陰陽師に繋がる人物。陰陽師は昔から占い師であるとともに土木建設技術者である。彼らは秀吉が天下統一後、京から追われ、知多半島に流れ着いた。
徳川家康は彼ら陰陽師を保護し、陰陽師の下に土木技術集団である黒鍬衆を結成させ、干拓、河川改修工事に活用した。
吉原はもともと江戸幕府成立後1618年、江戸中心地日本橋に公娼の街として開設された。これを「元吉原」と呼ぶ。しかし由比正雪の乱から不良浪人のたまり場となり、治安維持のために、明暦の大火の頃、浅草寺はずれの現在の「新吉原」が建設された。
新吉原建設を主導したのが、当時江戸北町奉行・石谷貞清(島原の乱の際の幕府軍の目付であった)である。彼は明暦2年(1656年)元吉原の名主に1万5百両補償金を支払い、新吉原へ移転を命じた。
明暦3年(1657年)1月、明暦大火が発生、元吉原含め江戸市中が焼失した。北町奉行・石谷貞清は市中再建と治安対策、悪所取締まりのため、新吉原建設を急いだ。
新吉原再建の実働部隊が知多出身松本清三郎を中心とする陰陽師、知多黒鍬衆土木工事集団、非人頭・車善七(善七は渥美半島の出身)を中心とする非人集団であった。建設資金の支援者となったのが、明暦大火で尾張藩木曽福島の材木商売で大儲けして、豪商となった河村瑞賢である。
新吉原は明暦3年8月、わずか4カ月で完成した。湿地埋め立てには明暦大火の瓦礫を活用した。その功で幕府は松本清三郎ら知多半島出身者に吉原で「揚屋」開業を認めた。
その結果、吉原の揚屋18軒のうち、13軒が知多半島出身者が経営主となった。松本清三郎は揚屋「尾張屋清三郎」と名乗った。尾張屋は吉原最大の揚屋である。
「揚屋」とは遊女を置かず、遊女がその店で客と宴会をする一種の「貸し部屋」である。揚屋は大名・旗本・豪商向けの最高級の店である。
一方、一般町人・下級武士が利用するのは「引手茶屋」と呼ばれる。大河ドラマ「べらぼう」主人公・蔦屋重三郎の養子先はこの「引手茶屋」である。
吉原で遊女を店に置き、遊女を管理をする遊女屋を「傾城屋」と呼ぶ。傾城屋の中でも多数の遊女を置く店を「見世」と呼び、少数の遊女の店を「妓楼」と呼ぶ。これら店の経営者、従業員は「亡八」と呼ばれる。亡八とは「仁」「義」を忘れた非人同様、一種の賤民である。
尾張屋清三郎ら知多衆が経営する揚屋は、徳川吉宗の享保改革など、武家の質素簡素化、風俗引き締め政策により衰退し、新吉原開設して100年余りで消滅した。その後、揚屋の役割は引手茶屋が引き受ける形となり、幕末まで続いた。
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吉原遊郭の遊女 - 兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義