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何者

 五月になった。あと二十日で誕生日だねと、祖父は嬉しそうに言うのに、なぜかわたしはひやっとした。永遠のティーンエイジャーが終わる。

 何者かになる。ならなければいけない。ずっと急かされていたように感じる。だれに?だれでもいい。考える間もなく、ただ焦っていた。何者かになる。名前をもたず、替えが利くわたしであるならば、わざわざ生きなくていいと思った。何者かになる。それがなければ、わたしはわたしになれないと思っていた。何者かになる。二十歳を目前にしたわたしたちは緊迫する。何者にもならずに、歳だけを重ねること。何者かになる。やっと、いまその過程にいる。そこに、想像していたような真のわたしは見えない。何者かになることが、真のわたしになることと同義だと思っていた。何者かになる。フィルター越しのわたしを誰かが見つけ、わたしの存在が、わたしだけのものではなくなっていくことだと、ほんとはずっと前から知っていた。

 何者にもなれないのは、くるしい。
暗闇、真っ暗闇の中で、どこに自分の影が落ちているのかわからない。それとも、見えないくらい大きい誰かの影が、すっぽりわたしを覆っているのかもしれない。他人の影は見えるのに、まるで、わたしの影だけが、どこにも落ちないように感じる。

 何者かになるというのは、居場所がわかるということだ。だって、光を浴びるから。見つけてくれる人がいるし、自分でも自分の影を見つけられる。夜が来ても、また朝日が昇ることを知っている。

 一度、何者かになった人間は、「何者」を守らねば、太陽がなくなると思っている。また、進路調査書を突き出された、あの頃に戻ると思っている。自分の存在を証明できないことが、ほんとは死ぬことよりもずっとこわいから、人は死ぬまえから墓をつくる。

 何者かになる。いま、それにわたしは喜んで身を投じている。何者かになる。いずれそれを足枷に感じるだろう。何者かになる。なったあと、あたらしい自分を諦める言い訳にする日が来たら、決して英断とも犠牲とも思わないでいよう。

 何者かになる。なっている。なろうとしている。まだ飛べないが、今は羽を乾かしている。それが、こそばゆくて、不思議で、まだ、重い。ぎゅっと目を瞑り、寒さに耐えているあいだにわたしの背には、こんなに綺麗な羽がはえていたなんて。わたしはずっと、暖かい土の中にいたかったのに、やはりわたしもただの生命であった。自然の摂理には逆らえない。それでも、「一生モラトリアムじゃない人生ってなんなの?」と言い放った、何者でもない自分は、ぜったい心のまんなかにいてほしい。

 いつかいまの羽が古びたとき、その羽で、飛べなくなってしまうまでどこまでも景色を眺めにいくのも、いいかもしれない。生きながらに死に、また寒さを凌いで、あたらしい羽を手に入れるのもいいかもしれない。最初から、何者かになるというのは、自分の羽の色を決めるということだった。決めるのは自分の色なんかじゃなかった。そんなものは死ぬまで決めなくていい。何者かになったあと、「何者」を脱ぎ捨てられないでいるなら、それは縋り付くだけの像であってやはり、自分自身は、何者でもない。

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