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足るを知った話。

  こんばんは、すみあいかです。

 短編映画のこととか、紅茶は茶道だと気づいた話だとか、語るべき言葉は積もっているのですが、ちょっと最近、SNSから離れて生活していました。今までも、もう疲れたーって言っていきなりログアウトしたり、一時的にアカウント削除することはあったのですが、今回の場合はどちらかというと、フェードアウトという感じでした。

 結構前から、いい加減にスマホ離れしたいなと思いながらiPhoneの設定で「各種SNSは23時まで!」と時間制限をかけていましたが、普通に制限解除して夜中まで見てたので意味なかったです。

 そんな夢中になるまでなにをみていたかというと、その頃わたしはとにかく変化が欲しくて、ひとり暮らししようと思い立っては全国各地の賃貸物件を見漁ったり、住み込みで働こうと思い立っては雪山の近い場所のペンションのウェブサイトを片っ端から開いたり、やっぱり何かするにもお金が必要だなと思い立ってはカメラの仕事を引き受けようと案件のマッチングサービスを登録したり、かと思えば今のうちにいろんなバイトを掛け持ちして経験してみようと思い立っては電車で通える範囲の個人経営の喫茶店の求人を探したりしていました。こうやってみると家を出るのか出ないのか、今の仕事に専念するのか違う業種をやるのか、もうはちゃめちゃですが、とにかく今の生活が嫌で嫌で、焦りに近い気持ちで心の底から変化を求めていました。

 わたしの心境が変わったのは、友人と過ごした一日、とある紅茶屋さんでの出来事がきっかけでした。

 その日は、数日前から始めていた服の整理の仕上げをして朝を迎えたところでした。それも変化を求めてのことだったのでしょうか、しかしなんとなく、部屋がぐちゃぐちゃのままその用事へは行きたくなかったのです。わたしの高校時代は服という服にお金を注ぎ込んでいたので、タンスとクローゼットの中身を全部ひっくり返すと、頂きものと併せても相当な量の服がありました。着たいけどあんまり似合わない服、ワンシーズンに一回しか着なさそうな服、高かったので手放したくない服、というありとあらゆる服とお別れを決心した日でした。疲れ果てた朝、残った服たちの中からとっておきの服を着て、出掛けました。

 友人が素敵な喫茶店があるよ、と連れていってくれたお店は夫婦で経営されているようで、とても落ち着いた雰囲気でした。注文を取りにきた奥さまにオーダーしようとメニューを見ていたら、こちらが何か言う前に「まぁ、とっても素敵なお洋服ね、本当に。女優さんみたい」と思ってもみないところで唐突に褒め言葉のオンパレードにあいました。自分に言われたものだとすぐに認識できず、あ、ありがとうございます…としどろもどろになってランチを頼んだのですが、奥さまが去った瞬間、一緒にいた友人に、「ねえ!今の聞いた?女優さんになれるかな~」なんて照れ隠しながらも浮かれて話していました。それからは、ごはんを食べてるあいだも、紅茶を頂くあいだも、その言葉がずっと離れませんでした。

 友人のおかげで、その日は画面越しの喧騒からはいちばん遠くの場所で、ただただゆったりと、レコードから流れてゆく時間と紅茶を愉しみ、話をして、一日を終えました。とてもひさしぶりに、陽が落ちてゆくのを、愛せたような感覚でした。ひとつひとつが大切にされているモノに囲まれる空間は、上品な贅沢そのものでした。帰りの電車ではうとうとしながらも、ずっと、余韻に浸っていました。     

 その日はとても疲れていたはずなのに、帰ったらすぐに今朝片付けたばかりの部屋をまた崩して、模様替えをしました。
 
 今までは、ただ物足りなくて変化がほしいだけだったのが、今度は今もっているものを心から愛でられるようにする空間をつくるために部屋を変えました。チェストの上にはレースや布を敷き、引き出しの中は綺麗に整え、壁にはお気に入りのレコードや、絵や、写真で飾りつけました。

 部屋中にオレンジ色のライトを置き、ひさしぶりに自分でキャンドルをつくって火を灯しました。


 わたしはずっと、健全な消費、もっと言えば、丁寧にモノを大切にする生活がしたかったです。憧れていたのに、なぜかずっとできなかった。和室はインテリアに合わないし、机が白色じゃないし、壁もゴツゴツして可愛くないし、気に入った部屋じゃなくちゃ、そんな生活は送られないと思っていました。丁寧に日々を生きる生活は、いいモノに囲まれていないとできないことだと思っていました。本当にいいモノだから、手入れをして大切にしたくなる、と。だからずっと、あれがほしい、これがほしい、と変化を求めていました。でもわたしは、喫茶店の奥さまの言葉のおかげで、「あー、わたしはもうすでに素敵な服を着ているのか…」とやっと思えるようになりました。その日着ていた服は、アイロンをかけていた服でした。いいモノだから大切にしたくなるんじゃなくて、愛を込めて手入れをするから、それを身につけている自分が素敵に見えるのだろうなと思いました。夜、ぜんぶの服にアイロンをかけてあげました。

 その日の帰り、わたしはずっと友人にこれほしいからがんばる!と宣言していたコートとトランクケースを、買うのやめる!と宣言しました。急にどうしたの、と驚かれましたが、

「まだ使えるものがあるんだから、ちょっと安く手に入るからって可愛いものを新しく買う必要ないなと思った」と言ったら、素晴らしいと褒められました。素晴らしくなった。

 ここだけの話、今までわたしは安定とか現状に満足するとか、勿体ないしちょっとだけ馬鹿馬鹿しいなと思っていました。でも、ずっと足りない足りないと言っているのは、もっと勿体ないことだと気づきました。

 わたしはずっと、今の自分の環境や自分自身にさえも満足できなくて、更なるものを求めては、自分の理想が高すぎて、全然手に届かなくて、それを絶望しては、「この世の中は、一般市民は支配者層に搾取されて貧乏になるからいつまでも満足いく暮らしができないのだ」と人のせいにしていました。でも、本当に貧乏なのは、こんなに素敵なものに囲まれてもそれが目に入らないで「もっともっと」と小さな画面を見つめる自分自身のこころだったんだな、と思いました。

 すべてが最高な部屋に生まれ変わった翌日、わたしはティーポットを買った帰りに、生まれてはじめて自分に薔薇を贈りました。これまでは、花を飾って写真に撮ってインスタにあげる人は、花を飾る自分が好きなだけだろうだなんて捻くれたことを考えていましたが、花を持って歩く帰り道、よい香りに包まれたわたしは、自分のことがだいすきになりました。これでよいのです。

 今夜もまた、薔薇は窓辺に咲いています。そして紅茶を頂きます。優雅な夜です。


 現状に満足してぬるま湯に浸かる生活はやっぱりしたくないけれど、それでも自分自身の生活に満足を覚えるというのは必要だったと気付きました。わたしがずっと望んでいた生活は、まだまだ指も触れられないくらい遠い場所にあると思っていたのに、こんなにも簡単に手に入ってしまいました。足るを知る、ということです。

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