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読書の日記#7 『〈情弱〉の社会学: ポスト・ビッグデータ時代の生の技法』

久々のドライマンゴー、美味くてもう食べ切ってしまった。土曜日に彼女と散歩したとき、KALDIで買ってもらったやつ。
その日はボードゲームカフェにも行って、3時間遊びに遊んだ。数字の書かれたコマを使う『ガブル』、盤から球を落とす『stomple』という心理戦系のやつが面白かった。

休日はそんな感じでリフレッシュしているけれど、ここしばらくは仕事が割と気がかり。ちょっとしたアプリケーションの開発をしているのだけれど、今回は納期まで短い。やらないといけないことはいろいろあるのに、要件が出てこないのでやきもきする感じ。やることが明確でそれを淡々とこなしていければいいのに、この資料必要か?とか余計な考えが浮かんでなかなか集中もできない。まあ、基本的にはどうにかなるだろうと能天気な私だけれど。

今回の作品はこちら。
柴田邦臣『〈情弱〉の社会学: ポスト・ビッグデータ時代の生の技法』青土社(2024)

インテリに憧れているので、たまに専門的な本を手に取りたくなる。話は以下のような流れだったと思う。多分30%ぐらいしか理解できていないので、正確ではないことを断っておきます。

①"情報弱者"という言葉がある一方で、インターネットやスマホが普及し情報に溢れた社会で私たちは情報を得ることに強迫観念を覚えているのではないか
②介護保険制度やマイナンバー制度による(あるいは今後予見される)ビッグデータ社会について(フーコーの話が出てきたり、このあたりが難しかった)
③社会的弱者とされる人たちはどのようにテクノロジーや情報社会を活用しているか

最初はいわゆる"情弱"という言葉がなぜ使われるようになったか、的な話を期待していた。方向はちょっと違ったけれど、これほど情報で溢れる社会では誰しもが情報弱者になり得る(すでになっている)という話には納得。
テレビもあまり観ないしTwitterもだいぶ前に辞めたし、情報を得る窓口が限られているので自分もどちらかといえば弱者だと思う。IT企業で勤めているのに。

「鏡の中の自像は、…自分に見えながら実際には少し違う像を結んでいる。」(p.161)という一文があり、これはかなり印象に残った。
Amazonのおすすめとかがまさにビッグデータの活用例なわけだけれど、おすすめの対象になっている人は実際のその人と似て非なるものだ。私で言えば、ドライマンゴーを食べたとか仕事で悶々としているといった余計な情報は漂白された、ある商品を購入した20代後半の男性というデータでしかない。これを鏡に例えているのがわかりやすい。

テストの点数、偏差値、収入、カラオケの採点などなど、生きていると数字で自分を表される機会に度々遭遇し、げんなりすることがある。数字によって単純化される一方で切り捨てられていることをなんとなく感じるからだろうか。確かに点数ってわかりやすいし、より上を目指したこともあるから否定するつもりもないけれど。
これからも自分なりの技術で情報の海を泳ぎ渡って生きていこうと思いました。あなたもがんばれ。

2024/11/12


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