慈悲の惡
人類としての普遍を考えるとき,身体障害の人々においては課題の分離として乖離させ,おざなりにすべきなのだろうか.社会はよりよい社会を目指す能率のためにと,社会は形式的に剥離させ,慈悲をもとに援助,支援を行なっている.
ぼくはそのような人々に対して社会と同じくせめてもの慈悲を持つように心懸けていた.でも,あるとき気づき,苛まれ,蝕まれた.
慈悲の惡に.
ぼくはフードコートで食事をしようと思い,フードコート内からモスバーガーにすることに決めてテリヤキバーガーを食べることにした.注文してから席について,まもなくしてテリヤキバーガーが出来たから受け取りに行って,席に座って食べていた.美味しかった.レタスのシャキシャキ感は氷水にちゃんと付けてるんだろうなってのが分かるし,テリヤキのソースはレタスに満遍とかかっていて美味しかった.
しばらくして,はすの向かいの向かいの方に車椅子が二台やって来て,その車椅子に一台ずつ介助士の方がついていた.もとあった椅子を介助士の方が移動させたから,どうやらフードコートで食事するようだ.フードコートで何か頼んでたけど,並行してあらかじめ持ってきていた食事をテーブルに広げていた.そんな様子をぼくは何の気なしに人間観察くらいの軽い気持ちとして眺めていた.
介助士の方々は一生懸命に食べさせていた.
周囲の人々は一瞥してから,あまり見ないようにしている.なんて冷たい視線だろうと思いながら,ぼくの視線も多分,等しく冷たいんだろうと思う.
水を軽く飲んで,テリヤキバーガーを俯いてから食べた.さっきよりもレタスはジャキジャキするし,もともと常温だったテリヤキソースはパティの温度を生半可に帯びて気持ちが悪い.なんだか美味しくなくなった.慈悲の惡をたしかにそのとき自覚した.
この自意識は分解しても分解しても分解できない.再帰的に自意識としてある.吐き気のする殺したい自意識が意識の届かないところに蟠っている.間違って分泌されてる邪なホルモンがある.相対的な優越感をもしかして感じているのではないか.自分が正常でよかったと思い上がっているのではないか.生物に高等も下等もないというダーウィンの考え方が好きだ.とても好きだ.どんな人がいても同じく普遍を象るものとして,帰納法的帰結に向き合ったからこそ,自分を戒めることができたし,改めることができた.ただただ現実として向き合えた.課題の分離ともせず,目睫の事象として真摯に向き合ってこれた.この慈悲こそが惡か.どう向き合えばいいか,どう触れ合えばいいのだろう.自覚する意識を拭えない.佇むことできない.自然体でいられない.ぼくは生を無駄にしている.多分,生ききれていない.自己を社会に還元しなければ.そんなことを反作用的にみて思うのは愚かか.慈悲の惡だ.この慈悲を拭いきらなければ,無自覚の世界線へぼくは行かなければならない.自意識がうるさい.どこにもいけない.真摯に主客の一致を求めたい.そこまで追い詰められた.それは人類を補完するためではない,ただ自覚ある慈悲を捨てるためだ.人類に慈悲がなければ,その方々が住みやすい方向に社会は傾かない.それでも最終的に追究するのは慈悲の生まれない世界だ.生物に高等も下等もない.ただただ在る世界だ.慈悲こそ惡か.慈悲こそ惡だ.どう向き合えば方々の幸福に帰結するのだろうか.
慈悲こそ標か,慈悲こそ惡か.
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文体・写真/梅野瑳刀