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愛の反対は無関心
これはマザー・テレサの言葉。
と日本では言われているが、本当はエリ・ヴィーゼル(ノーベル平和賞受賞者)が言ったというのが世界標準の認識らしい。
愛の反対は「憎悪」と考えるのが普通のところ、困った人がいたら見過ごして助けないことが実は愛に反している、という教えだ。
「なるほどぉ〜」
という印象を与える言葉はあっという間に「名言」として至る所で引用され、あたかも「それが何よりも正しい」、と思い込ませる。
他人に慈悲を掛けることを否定するのは人としてはできないし、そうやって否定されにくい言葉は独り歩きする。
その証拠にマザー・テレサが本当は言ってないのに、誰かが日本語でそれを書いたものがあちこちにコピペされているではないか!
しかし本当にこの言葉は全ての真理をついているのだろうか?
これは飽くまでそれを言った人の見解であって、正解はなにも一つとは限らない。
「愛の捉え方」をその人がどう定義しているか?
これが大切なんじゃないの?
例えばの話。
貴方はアメリカで開かれる一万人の会議でスペシャルなゲストに呼ばれている。それは多くの人の命を救うチャリティーイベントで貴方の信条にも合うものでありそこでスピーチすることをとても楽しみにしている。
そして日本を発つ為に先ほど家を出た。
すると道端に困った坊やがいて助けを求めている。貴方は周りの人に協力を求めるが誰もいない。しかし生死に関わる問題ではなさそうだし、間も無く誰かが通り掛かるであろう。
さて貴方はどうするのか?
名言通り、目の前に直面した困っているものから目を背けるのが「愛ではない」のなら、貴方はその坊やに向き合わねばならぬだろう。
しかしその結果アメリカのコンベンションには間に合わずチャリティー目的で貴方を見たいがためにチケット代を払った一万人の愛に背くことになる。
「目の前の」というたった一人の緊急性と、「目の前ではないがいずれくる一万人」への重要性をどう測るか?
これに対して明快な答を持っている人は少ないだろう。でも私は一万人を選ぶ。愛の総量が勝るからだ。これを「利他の精神」と言うのだ。
他人の悦びが自分の悦びとか言っている人は自己犠牲に酔っている偽善者に過ぎず、その自己陶酔から目を覚まさぬ限り本当の愛の伝達者にはなれないだろう。
寄附をするという人は、同額の寄附で一万人を助ける寄附と十人を助ける寄附ならどちらにしたいだろう?
これが利他の精神である。
ただ目の前の人が、知人だから、知ってる難病だから、とミクロで捉えて愛を振りまいている人は本質をいつまでも理解できない。
時には誤解を招くことを恐れず、自分の愛に対する信念を貫くことが、愛だと定義する人がいてもいいんじゃないだろうか?
そういう意味では僕は「嫌われる勇気」がある、というよりも、「嫌われるために生きている」というのが本質だろう。
世の中にはいろんなタイプの人がいるのに、八方美人になって全ての人に気に入られる愛なんて存在するわけがないのだから。
「かわいい子には旅をさせよ」
と言うが、
「何があるかわからない、そんなことは危険だ、あなたのためを思って言ってるのよ!」
と自分のただの心配を他人への愛と置き換えて、愛の押し売りをしている人がいるが、これが歪んでいることくらいは誰にでもわかるだろう。
それと同じだ。
世の中には色んな人がいる。自分にとって都合のいい人もそうでない人も。自分の意見に賛同する人もしない人も。
それでいいではないか。嫌われることから逃げてるだけで、どちらにもいい顔をしようとしていることが問題であって、敵も作れない人は強い味方もできないということだ。
リーダーシップを「人をまとめよう」と捉えてしまう人が多い。全ての人をまとめるのは絶対にできない。3:4:3の法則(さしみの法則)と言うが3割の絶対的賛同者と絶対的反対者、そして4割の日和見層に分かれている。
そう、7割の人が掌握できれば、100%の賛同を得たと言っていいだろう。なのに人は残り3割をなんとかしようと働きかけ過ぎて余計に離れていくか、嫌いになって制裁を加えてしまうか、という暴挙に出ることがある。
「世の中色んな人がいるんだな」ってことが受け入れられると心が楽になり、その人を許せるようになり、それが長期的な真の愛に繋がるのだ。