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アキレスと亀の距離


「二ノ瀬」
向こうからやって来たのでそう声をかけたのだが、それだけで二ノ瀬はギン、と音が聞こえそうな目つきで矢代を睨んで無言のまま身を翻し、もと来た方へ去っていった。
「いやー相変わらずキツいっすね矢代先輩に対してだけ。いつも聞いてますけど何やったんすか」
「いつも言ってるが心当たりは無い。こっちが知りたいくらいだ」
とはいえ、こちら側に用があっただろうに逃げ去るも同然の挙動というのは随分な所業と言っていいだろう。
部活の後輩である萱野はいかにも楽しそうだが、身に覚えのない矢代としては不快よりも先に戸惑いが来る程度には気になっている。


新記録。
新記録だ。
アクシデントではあったが、新記録なのだ。
まさかあんな正面から出くわすなんて思わなかった。
でも新記録は新記録。廊下のタイルで計算して約1メートルちょっと。前回が約2メートルだから、一気に半分になった。

「何のつもりだ」
普段は温厚な矢代も不機嫌にはなる。具体的には、昼休みに完全に空腹のテンションがそうなっているにも関わらず、カツサンドもデザート狙いのフルーツサンドも買いそこね、味気ないコッペパン一つで済ませた直後、血糖値も上がりきらないまま教室に戻ろうとする途中の今などだ。
そんな時に背後に迫る二ノ瀬に気づいてしまっては、ささくれだった物言いになるのを責められもしないだろう。後ろ姿からは矢代と気づかなかったが故に近づいていただけという可能性もあるが、最悪の場合後ろから殴りかかられるかもしれない相手だ。
普段ならば二ノ瀬は睨み返すだろうところだが、矢代には珍しい恫喝めいた声を受けた二ノ瀬は俯いて後退り、慌てて走り去った。
八つ当たりの罪悪感と、まあ一矢報いたと言っていいだろうという満足感が混ざった奇妙な感慨を覚えながらふと床を見ると小さなメモが落ちていた。
さっきまでは無かったのは間違いない。となると、二ノ瀬のものだろう。拾ってみると、感極まったのであろう乱暴な筆跡で文章が走り書きされていた。
新記録。正面から出くわした。1メートル。
明らかに昨日、萱野と一緒に二ノ瀬と遭遇した時の話だ。

この調子で少しづつでも距離を詰めたい。
いつかゼロになればいい。
矢代さんがどう思ってるかわからないけど、半分づつでも縮めていきたい。
この距離がいつか、ゼロになればいい。

矢代は考える。これはゼノンのパラドックスだ。アキレスと亀の間の距離は半分づつ詰まっていくが、それで距離をゼロにするためには試行回数を無限にしなければならない。
だが試行回数を無限にするために必要な時間は算出できない。ゼロ除算はできないのだ。
だからこれは、ただのちょっとした嫌がらせだ。
次の距離は50センチ。振り返って一歩近づけばすれ違う。
首尾よく決まった瞬間の二ノ瀬の表情を見ることが叶わないのが残念で仕方がないが、妥協できる範囲としてやってもいい。

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