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【読切短編集】文字の風景

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風景を文字で切り取る実験です。1000文字以下の超短文&1話読み切り連載 です。もしあなたに読んでいただけたら来週からも書き続けられます。
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2020年8月の記事一覧

【読切短編:文字の風景⑧】夏祭り

夏祭りの匂いは、焼きそばと綿あめと、人間の匂いで出来ている。 しょっぱくて、甘くて、ほんの少しだけ饐えている。 立ち並ぶ出店の香りが私を撫で、首筋の汗と交じり合う。薄墨色の世界の中で、ぼんやりと赤い提灯が浮かぶ景色は、何かが待ち構えている予感がする。手招きされるように歩き出すと、カラン、と乾いた音がした。数日前に買った浴衣の、青と黄色のストライプ模様が翻る。 思春期の女の子にとって、夏祭りは否応なくロマンチックな響きを感じさせる。女友達と約束して、この日の為のお洒落をし

【読切短編:文字の風景⑦】子供部屋

玄関で靴を脱ぎ、すぐ右側にある和室が私の子供部屋だった。 割と広い部屋だった気がするが、畳の配置を思い出すと7~8畳ほどだった気がする。弟と一緒に並べられた勉強机があり、寝具は無い。2階の寝室に家族全員で川の字になって寝ていたからだ。 窓際には床の間があったが、ほとんど物置と化していた。その奥には小さな庭があり、大きな紫陽花の株が部屋を覗いていた。 父の趣味で、物置には大きな自立型のサンドバッグが置いてあった。私は昔からそのサンドバッグが怖かった。勉強机に向き合うと、そ

【読切短編:文字の風景⑥】江の島

大橋を渡り終えると、江の島は闇に包まれていた。 昼間の喧騒は落ち着き、いくつかの店は戸締りを始めている。しかし、江の島弁財天へ向かう参道はまだぼんやりと灯がともっていた。 歴史を感じさせる木造建築と、海に囲まれた島らしさのある郷土品・名産品店が立ち並ぶこの通りは、ずっと昔から変わらないであろう独特の活気をまとっている。 江の島は山だ。一番そう感じるのは、勾配の付いた坂道を登る時である。山は、昔から人と人ならざる者を線引く境界線だ。私たちは賑やかな商店街と参道に見送られ、

【読切短編:文字の風景⑤】蝉時雨

朝の産声間もない空に、紫煙がくゆって消えていく。 朝7時。私は、ベランダに出て煙草を吸っている。空は冴えない色をしていて、吹く風はじき来る夏を感じさせない涼しさだ。階下からはトラックの走行音が、街の目覚ましアラームのように響く。 愛用のアメリカンスピリットの1mgからのぼる煙は、空と同じ冴えない色をしている。煙草から抜けだして間もない内は、アール・ヌーヴォーのような曲線を描きながらその姿を主張するが、瞬きするうちに形は移り変わり、そして消えていく。見るともなくその姿を目で