掌編「限界サラリーマン桑原の日常」1,065文字
トイレへ行こうと、廊下に出ようとしたところで人と接触してしまった。
「あわァ!かっ、スミマセン!」
見ない顔の若い女が小走りで入って来たのだった。たいそう慌てている様子だが、他部署の新人か、インターンの学生か?
道を譲ると、何度も頭を下げながら中へ入っていって、誰かを探しているようだ。用件をきいてやったほうが良かっただろうか。
ため息が出そうになったが、すんでのところで深呼吸に切り替えた。ため息が癖になりつつある為に、このところ妻との関係が良くなかった。私なりに反省し、個人的な今月の目標に“ため息をしない”というのを掲げて三ヶ月目。気づけば師走だった。未だ達成はしていない。達成したら小遣いでヱビスビール500ml缶を1本買うのだ。
トイレにいきたいことを思い出し、廊下に出ると少し寒く尿意は加速した。オフィスから声がしたような気がするがこの尿意と別れてからでも遅くはないだろう。
便意はないが個室に入る。考えてみれば、これも妻に言われてついた習慣だ。今や無意識である。もしかしたら私は立ちションの仕方を忘れてしまったのかもしれない。
まあ、トイレではぼんやりしがちな私にとっては、スーツにシミをつくるリスクを回避できるのでよしとポジティブに結論づけて深く考えないことにしている。
便座に座ったところで身体に衝撃が走る。
…冷たい!
便座の温もりすら貰えないなんて。サラリーマン川柳を地で行くのか、私は。
しかし困った。衝撃の際に短く息を吸って止めてしまった。これを解放してしまったら、ため息にならないだろうか。
尿意の解放もあるし、人間なら誰だってこれくらいの息は吐くよな、そうだよな。
鼻から安堵の息を吐く。無事にこの局面を乗り越えた。
寒い廊下を通ってオフィスに戻ると、私のデスク周辺に数人の人集りができていた。何事だろう。まさか、私としたことがコスプレ衣装の検索画面をパソコンに映したまま席を立ってしまったのだろうか。それは、忘年会の準備のためで、けっして個人的な趣味ではないのですよ…。
近づくと、さっきの若い女がまた慌てているようだった。ノートパソコンは画面が閉じてあり平らだったのでひと安心。だが、デスクの上が見慣れないセピアの海だった。
「うわァ…スミマセン、スミマセン…」
同僚が私に気づいて話し掛けてきた。
「あ、桑原さん。あの子、総務部の新人さんらしいんですけど、デスクにぶつかってカップ倒しちゃったみたいで…」
ため息が出ていくのと同時に肩が落ちるのを感じた。なんでよりによって私の席だよ。
周りの同僚の声が聞こえる。
「くわばらくわばら…」