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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #144〜イゾルデ・メンゲス(vn) ショパン『ノクターン 変ホ長調 Op.9-2』(1927)

F.Chopin
Nocturne in E flat, Op.9, No.2

Isolde Menges, Violin
Eileen Beatie,Piano

HIS MASTER’S VOICE D 1288
Shellac 12" 78rpm
Recorded 27. June. 1927

※以下のテキストは2024年8月18日に開催された「シレナ1912 &クレデンザ1926×78rpmの邂逅 Vol.2 イゾルデ・メンゲスのベートーヴェンとアコースティック録音期の女流ヴァイオリニスト」のプログラムから一部抜粋、加筆したものです。


淑女のヴァイオリン

時代を彩ったヴァイオリニストたちの系譜や、その演奏、技法、個性的パーソナリティのエピソードに渡るまでを描いた、ヴァイオリン好きなら避けて通れないマーガレット・キャンベルの名著「名ヴァイオリニストたち」。
この書物で一つの章が割かれ、歴史上(事実上)最初の女性プロ・ヴァイオリニストとして紹介されているのは、ヴィルヘミーナ・ネルダ(1839 – 1911)である。
もちろん、それ以前にも例えばヴィヴァルディが教えていたピエタ孤児院出身の少女たちをはじめ、18世紀から19世紀においてプロの女性ヴァイオリニストは存在し、その生涯も比較的知られている。しかし、どちらかと言うと世間的にはヴァイオリンは女性(淑女)が弾く楽器として相応しくなく、名手シュポアなどは妻がヴァイオリンを弾くことを好まず、やめさせてもいる。
天才少女と持て囃され、その超絶技巧が世間を騒がした女性奏者もいたが、皆すぐに忘れられる存在でしかなかった。
そんな中、ネルダはヨアヒムに認められ、彼の弦楽四重奏団でも弾き、二人でバッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲を演奏もしている。その演奏スタイルやレパートリーは、ヨアヒムの影響を強く受けた「古典的」なものであったという。
またネルダは、後の1885年に自らの名前を冠したオーケストラを設立することになるサー・チャールズ・ハレと結婚したことで、その名声を揺るぎないものにもした。
「彼女の成功は男性に支配されていた職業ヴァイオリニストの道を、他の女性が選ぶのを勇気づけたことは間違いない」とキャンベルは述べている。

ただし、ネルダの時代(現役中)は、レコード録音は発明されておらず、彼女の演奏を実際に聴くことができないのは言うまでもない。
現在に生きる我々が、実際の録音でその演奏を確認できる国際的評価を得た最古の女性ヴァイオリニストは、イギリスのマリー・ホール(Marie Hall, 1884 – 1958)とアメリカのモード・パウエル(Maud Powell, 1867 – 1920)の二人である。

マリー・ホールは1894年に10歳でエドワード・エルガーに1年間師事するなど、著名な教師のもとで学び続けた。

一種の伝説ではあるが、ブリストルの路上で恵みを受けるために演奏し、飢えに苦しんでいるホールを見つけた牧師が、彼女をロンドンに連れて行き、有名なヴァイオリン製作会社W.E.ヒル&サンズのW.エブスワース・ヒル、作曲家のジェーン・ロッケル、慈善家のフィリップ・ネイピア・マイルズを含む友人たちの助けを借りて、1900年にヨアヒムの弟子であったヨハン・クルーゼからレッスンを受けられるようにしたという。
そして 1901年には、ヤン・クーベリックの助言により、彼女はプラハに行き、クーベリックの師であり彼に徹底的にテクニックを身に付けさせたオタカル・シェフチークにも師事した。
ホールは1902年11月にプラハでデビュー、その後も快進撃を続け1904年にはワールドツアーを行えるまでに成長した。20歳の時のことであり、本日ご紹介する2枚の音盤はまさにその1904年に録音されている。

またホールは二人の偉大なイギリス人作曲家の名前と深く結びついている。
一人は師匠でもあったエルガーで、その後ハイフェッツの十八番となる「ヴァイオリン協奏曲 ロ短調」を短縮版でありながら1916年に世界初レコーディングしている。
またラルフ・ヴォーン=ウィリアムズの代表作のひとつで、ヴァイオリンとオーケストラのためのロマンス「揚げひばり」の作曲において助言をし、1920年のピアノ伴奏版の初演を経て、翌21年にはエイリアン・ボールト率いるオーケストラと再初演している。作品はもちろんホールに献呈されている。

ホールは「とても魅力的で、とても小柄で陽気で、ユーモアのセンスに富んだ女性」と評されている。
彼女が50年以上演奏した1709年製ストラディバリウスは、現在「マリー・ホール・ストラディバリウス」として知られており、1988年4月にサザビーズで南米の匿名の入札者に47万3000ポンド(当時のレート換算で約10億8000千万円)で落札された。

モード・パウエルは男女の別なく、その存在を世界的に評価された初のアメリカ人ヴァイオリニストである。

10歳になる前に早くも天才児として認められたパウエルの音楽教育を継続させる資金を調達するために、両親は自宅を売却、父親は借家に残り、彼女は母親と弟のウィリアムとともにヨーロッパを旅した。ライプツィヒとパリの音楽院で優秀な成績を収めたパウエルは、ベルリン音楽大学でヨアヒムに師事し、1885年、ヨアヒムの指揮のもとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とデビューし、ブルッフのト短調協奏曲を演奏した。
そして帰国後はセオドア・トーマス指揮のニューヨーク・フィルハーモニックとも共演した。

パウエルはアメリカの音楽史上でいくつかの偉業を成し遂げている。
チャイコフスキーとシベリウスのヴァイオリン協奏曲の米国初公演でソリストを務めたのはパウエルであり、そして1894年4月7日にはカーネギー・ホールにおいてアントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと共演し、作曲家自身の監督のもとドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲を米初演したのも彼女である。

しかし、1919年11月、パウエルはミズーリ州セントルイスのステージで心臓発作を起こし、翌20年1月8日、パツアー中のペンシルベニア州ユニオンタウンで再び心臓発作を起こして亡くなった。享年52歳。

パウエルの愛器ガダニーニは「楽器は次の偉大な女流ヴァイオリニストへ」という彼女の遺言に従い、1921年に16歳のウィーン出身のヴァイオリニスト、に、彼女がカーネギー・ホールでの初リサイタルを終えた後に贈られた(ただし、モリーニにとってこのヴァイオリンは大きかったので、それを演奏するのはもう少し後のことだった)。
パウエルは、1904年から1919年までVictrola(ビクター・トーキング・マシン・カンパニー)でレコ―ディングした最初の楽器奏者の一人であり、その録音数は90曲を超えていた。
パウエルは、2014年1月25日、グラミー生涯功労賞を受賞した。

キャスリーン・パーロウ(Kathleen Parlow, 1890 - 1963)は、その卓越したテクニックで知られ、、「黄金の弓を持つ女性」というニックネームで呼ばれていた。
カナダ人でありながら、ヨーロッパと新大陸を行き来し活動する生活が続き、 4歳でカナダを離れた後、1940年までカナダに永住することがなかった。

4歳でヴァイオリンを習い始めたパーロウは、すぐにその才能を開花させた。
そして一流のプロのヴァイオリニストになり、コンサート活動を始めるために、パーロウは先人の例に倣い両親と共にヨーロッパへ渡ることを決意、1905 年 1 月 1 日、パーロウ親子はロンドンに到着した。
ミシャ・エルマンのコンサートを観た親子は、エルマンの師であり、ロシア・ヴァイオリン楽派の祖、レオポルド・アウアーを訪ねることにした。ただし、持参金300ドルではアウアーのいるサンクトペテルブルクまで行くには十分ではなかった。そのためパーロウ夫妻はカナダの高等弁務官ストラスコーナ卿から融資を受け、1906 年 10 月、キャスリーンはサンクトペテルブルク音楽院に入学することができた。彼女はアウアーの生徒としては最初の外国人であり、45 人の生徒のクラスで唯一の女性だった。

音楽院で1年間過ごした後、17歳のパーロウはコンサート活動を始めたが、ほとんど収入がなくしばらく生活の糧を得ることができなかった。
しかし、ノルウェーでホーコン国王とモード王妃の前で演奏し、彼らの寵愛を受けるようになり、裕福なノルウェー人であるアイナー・ビョルンソンと出会い、彼はパーロウのパトロンとなった。
ビョルンソンはパーロウのために、ヴィオッティが所有していたことでも知られる1735年製グァルネリウス・デル・ジェズーを購入、その価格は2,000ポンドで、それは当時の熟練工が20年弱を要して得られる賃金とほぼ同額であった。

パーロウは母親とともに5年間演奏しながらヨーロッパを旅した。アウアーはパーロウに強い影響を与え続け、パーロウは彼を「パパ・アウアー」と呼んだ。母親とアウアーはキャスリーンのためにコンサートや機会を手配し、その中にはトーマス・ビーチャムやブルーノ・ワルターなどの有名な指揮者とのコンサートも含まれていた。
その後パーロウは大西洋を何度も往復し、コンサート活動に勤しんだ。その中にはタイタニック号の生存者のための慈善コンサートも含まれていた。
一方、エジソンの依頼で最初のレコ―ディングを行い、その後コロムビア・レコードと契約し、レコーディング活動にも積極的な姿勢を見せた。
1922年、パーロウはハワイ、インドネシア、中国、シンガポール、韓国、日本を含む2年弱の長い世界ツアーに入り、日本滞在中にはニッポノフォン(現日本コロムビア)に録音もした。

パーロウの演奏は常に評論家からは絶賛されたが、それによって利益を生むことは稀で、彼女は生きて行くために大学(カリフォルニア州オークランドのミルズ大学、ジュリアード音楽院)で教職に就く一方、クァルテットやピアノ・トリオを結成し、活動の比重をソロからアンサンブルに移していった。
パーロウのキャリアが衰え始めると、彼女の経済状況は次第に悪化し、友人たちは彼女を支援する基金を設立した。1959年10月、彼女は西オンタリオ大学音楽学部の学部長に任命され、必要な収入がもたらされた。
彼女は1963年8月19日に亡くなり、彼女の遺言により、彼女の遺産とヴァイオリンの売却で得た4万ドルで、トロント大学の弦楽器奏者のためのキャスリーン・パーロウ奨学金が設立された。

モード・パウエルから愛器を送られたエリカ・モリーニ(Erica Morini, 1904 – 1995)は、アコースティック録音期、電気録音期、LPモノラル期、LPステレオ期と長くに渡って録音活動を行ったウィーン出身のヴァイオリニスト。

7歳でウィーン音楽院ヴァイオリン科に入学(史上最年少かつ初の女性生徒)し、1916年、12歳でウィーン・デビューを飾ると天才少女を騒がれた。
また、かの名指揮者アルトゥール・ニキシュはモリーニを高く評価し、自分のオーケストラであるベルリン・フィルやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団にソリストとして頻繁に招いた。
モリーニはニキシュとの共演について「これは私にとって生涯の中でも最も貴重な体験でした。私はあそこで弾くのを許された唯一の子供だったんです。」と回想している。一方ニキシュは「彼女は奇跡の子ではない。彼女は奇跡であり、子供であるんだ」と述べたという。
モリーニはその後も、、フルトヴェングラーやクライバー、トスカニーニ、クーゼヴィツキー、メンゲルベルクといった巨匠たちとも共演、ヨーロッパとアメリカをまたにかける活躍をした。

ナチスによるオーストリア併合(アンシュルス)が1938年に行われるとウィーンを逃れ、アメリカへ移住し、1943年には市民権を得ている。

モリーニはヴィルヘミーナ・ネルダと同じく、ヴァイオリンに肩当てやパットを使わずに弾くのを好む数少ない女流ヴァイオリニストであった。「私は首で楽器を支える独特なやり方をするんです。肩当てをしない方が、ずっと楽器と一体になれんす。」と彼女は言っている。そして機会あるごとに大勢のヴァイオリニストたちに自分を見習うよう説得したという。1930年にウィーン・フィルの何人かのメンバーのコーチをした時、結局ヴァイオリン・セクション全体を説得し、肩当てを放棄させた、というエピソードが残されている。

モリーニの宝物の中に刺繡入りのリネンのポケットチーフがある。これはマドリッド音楽協会から送られたもので、元々の持ち主はパブロ・サラサーテで、彼は演奏会でいつもこれを胸ポケットに入れていた。サラサーテは「私のスペイン舞曲の最も上手な演奏者にこれを贈る」と遺言していた。是非、本日の「アンダルシアのロマンス」に耳を傾けていただきたい。

イゾルデ・メンゲス(isolde Menges, 1893 – 1976)の名は、その音楽性の高さ、レコーディングの質の豊かさ、つまり彼女以前の女流ヴァイオリニストと比較して、明らかに大作(ソナタ全曲や協奏曲全曲)=より音楽性の高い作品を録音しているのもかかわらず、多くの人がその名や彼女の業績を知るに至っていない。

それは彼女のソリスト、レコーディング・アーティストとしての活動時期が極めて短く、LP時代に録音を残していてもおかしくない世代なのに、LP録音時代には録音活動を全く行っていなかったことと深く関係しているように思う。おまけにSP録音はLP時代に復刻されることもなく、ごく最近になってベートーヴェンやブラームスの作品が初めてCD化(SPレコードの盤おこしで、決して褒められた音質ではなく、もしかしたらメンゲスの音楽性を評価する足かせになりかねないシロモノ)された。
これはこれまで紹介してきた女流ヴァイオリニスト以上に、1930年代に入ると彼女が室内楽と教育活動に重心を置いた結果でもある。
1931年にはメンゲス四重奏団を結成し、1938年にロンドンのウィグモア・ホールでベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲演奏会を行い、オックスフォードでも演奏した。

ドイツ系イギリス人として生まれたメンゲスの偉大な師は二人いる。レオポルド・アウアーとカール・フレッシュである。メンゲスがロシア系とドイツ系を代表する時代の名教師に師事したことは、そのまま彼女の音楽性の多様性を物語っていると言っていいだろう。

ソリストとして彼女は、ヘンー・J・ウッド卿指揮のニュー・クイーンズ・ホール管弦楽団、ブルーノ・ワルター指揮のロンドン交響楽団、ロイヤル・フィルハーモニー協会など、著名なオーケストラや指揮者と協奏曲を演奏した。
そして、1923年、メンゲスはランドン・ロナルド指揮のロイヤル・アルバート・ホール管弦楽団とベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をレコーディング。これはこの作品の世界初録音として知られている。本日のメインプログラムである。

最後にメンゲスが出演したコンサート・レビューをいくつか・・・。

1913 年 2 月、クイーンズ ホール、チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
「...弓の見事なコントロールと...。猛スピードでパッセージを演奏しそうになったとき、指揮者が彼女を抑えなければならないこともあった。また、彼女のフレージングは、この率直に言って華麗な音楽を楽しませる衝動的なものだった...。 音色は並外れて純粋で、スタイルはすっきりと明快だった。
(1917年 ニューヨーク・タイムス)
1918年1月23日 ブリティッシュコロンビア州ケロウナ劇場
「…彼女は350人の小学生に無料で演奏し、彼らに目を閉じて蜂の羽音を聞き、子供時代にしか知らない想像力の夢を見るように言った…その夜のプログラムは、タルティーニの「悪魔のトリル」、ショパンの「ノクターン」、C. Ph. E. バッハ「ガヴォット」、、シューマン=アウアー「預言者の鳥」、ヘンデル=ハーティ「ホーンパイプ」、ラロ「スペイン交響曲」よりアンダンテとロンド、クライスラー「愛の喜び」「美しきロスマリン」などであった。」
1920年 ウィグモア・ホール ヴィエニャフスキの協奏曲、ヘンデルのソナタ
「ダブルストップとその他の装飾音は、端正さの見本であり、繊細な弓使いがそれを引き立てている。...彼女は魅力的なメロディーを奏でているとき、本当に幸せそうに見える。彼女はそれを楽しんでおり、その喜びを聴衆に伝える才能を持っている。」

[余談]
店主同様、イゾルデ・メンゲスの大ファンで、もちろんオリジナルSPレコードを何点かお持ちのご常連K氏とSPレコード録音期の女流ヴァイオリニストたち、特にメンゲスと本日は「敢えて」ご紹介しないイェリー・ダラーニ(Jelly d'Aranyi, ハンガリー, 1893 – 1966)の話になると、「ハチミツのようなヴァイオリン」という言葉が頻繁に出てくる。
色、香り、味、とろみ・・・、彼女たちのヴァイオリンの音色にはハチミツの特徴、個性を言い表すような言葉がそのまま通用するのでは?というのが私たちの見立てである。
もちろん、どんな花の蜜なのか、農園や生産者は何処で誰なのか・・・。それによってハチミツと言ってもその個性、味わいはそれぞれである。
まぁ、それはあたらくしあでお出しするコーヒーにも共通するところではあるが・・・。
もしよろしければ、本日ご紹介する5名の淑女のヴァイオリンを、ハチミツに喩えて堪能していただければ幸いである。


今回note用に制作したターンテーブル動画は、当日のコンサートでは紹介しなかったイゾルデ・メンゲス、1927年6月27日録音のショパン『ノクターン 変ホ長調 Op.9-2』(c/wはバッハ『G線上のアリア』)。

このよく知られた美しいメロディを持つ楽曲は、サラサーテによりヴァイオリン用に編曲され、SPレコード期には数多くのヴァイオリニストがその美しく豊潤な音色を披歴する曲として録音を残している。
メンゲスの演奏もその一つだが、情緒に溺れすぎることなく、やはりハチミツに喩えられるような甘さととろみ、そして少しだけトーンが抑えられた黄金色のその音色は、聴く者の耳には、見た目はシンプルだが贅沢な食材を丁寧に料理した一皿のように思える。






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