オメェはそれでいいや
先日
「少し弱ったぐらいがちょうどいいんじゃない?」
そう言われて「え!?」と思った。だがそう言われてみればそうなのかも知れないとも思えた。思い当たる節がそんじょそこらに点在するほど、自分は不器用なタイプだったからだ。
正義感について語られている一連の話題を見ていて思うところがあった。自分に置き換えて考えてみるに無駄にそれが強い。プライベートでも仕事でも趣味でも思想でも。正義感とは許せないもの、気に入らないものに対するアンチテーゼであり、自分の美意識を立ち昇らせる一番手っ取り早い触媒だ。
20代前半。オフ会の幹事をやっていた頃。初めて参加する人を差し置いて内輪ネタで盛り上がる常連、古株が許せず1人でテーブルを回った。それをやっている自分がカッコいいと思われたいがために。飲み会をエンジョイするという本来の目的そのものを失っていた。何にでもストイックを追求する自分に酔ってしまい、エンジョイをおざなりにしてきたのではないだろうか。
休日に蕎麦打ちを趣味にしていて、Amazonで頼んでいた蕎麦粉がトラブルにより当日届かなかった場合。明らかに立ち直れないタイプだ。他の過ごし方へシームレスにシフトする器用さに欠けている。その歪さは年輪を重ねるうちに柔軟性をさらに失い、自分に厳しく、他人にも厳しい生き方に塗り固められていたと推測する。
相手と限界の向こう側を覗けるまで肉体を削り合う試合もプロレス。飛んだり跳ねたり老若男女を沸かせるのもプロレス。
9者連続三振を狙うのもプロ野球。9者連続打たせて取るピッチングで凌ぐのもプロ野球。
明らかに自分の理想とするスタイルは前者だ。しかし、病も患った。無駄に鍛えてた筋肉も削げ落ちた。プロレスのスタイルもピッチングスタイルも変貌を遂げる時が来たのかもしれない。
先発なのに三振ばかり狙っていては保たない。以前の自分は150キロばんばんほおる中継ぎピッチャーのスタイルで先発を志願していた。数日前から理想のピッチングを想像し、それに酔い。そんなの続くわけがない。自分を削るだけである。
自分の人生は病と戦うためにあるわけではない。本懐は豊潤な時間を過ごせるよう己の畑を耕していくことだ。弱ることもなければ今頃無駄に鍛えて他人にストイックさを求め続けていただろう。
自分に厳しくも他人に厳しくもやめよう。いらない。用がない。猪木問答でいえばあの頃の自分にいってやりたい。オメェはそれでいいやと。
あの時棚橋弘至は言い切った。「自分は自分のプロレスをやります!」と。ストロングスタイルではない彼オリジナルの生き方で倒産寸前だった新日本プロレスを救った。彼のようなシームレスにシフトする柔軟性を纏いたい。本気で戦ったら誰よりも強いレスラーになる必要はない。意味がない。老若男女を沸かせられる棚橋弘至の柔らかさを纏うんだ。