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ミチ

老子 第一章

道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

現代語訳

これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。

これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。

天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。

だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。

これら万物の二つの姿はそれぞれ名前は違えど、同じ一つの根源から生じている。

その根源を「玄=深遠なる神秘」と私は名づけたが、その玄のさらに玄、神秘を生み出すさらなる神秘から、この世の全ては生み出されている。

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「戦争は平和なり」
「自由は隷従なり」
「無知は力なり」

 自由と平等を理想の上ではなく、現実的に見つめるためには「世の中は、自由ではないと認識する」「世の中は、平等ではないと認識する」必要がありました。

 私が普段使っている「平等」という言葉は、実は『公平』が正しいニュアンスであり、平等と公平の意味を私なりに解釈すると「平等とは機会を平準化して種を摘み取ること」であり、「公平とは機会を与え、種をまくこと」になりました。

 これは「民主主義」という言葉も同様、民主主義の本当の意味は「特権をなるべく作らないようにする」のが民主主義の基本だと思いますが、自由競争や自由貿易といった公平や公正に関する権利に聞こえる「自由」という言葉の魔力によって、多国籍企業や国際金融資本に代表されるグローバリストに有利な法律が次々と整備されているのが現状です。

 これは、民主主義であるかのように行われている政治や経済活動も同じ状況であると言っても過言ではない気がします。

 競争社会にいたころは、矛盾や苦痛を感じても、「〜のため」と頭の中で「言い訳」をしながら仕事をすることが多かったです。

 そのうち自己暗示にかかって「それが正しい」と信じ込むようになると自分に言い聞かせ、「自分とは何だったのか?」と自問しないよう努めましたが、不可能でした。これは政治や経済活動だけでなく、人間関係でも同じことがいえます。

相手の気持ちを疎かにしていないか?
相手をしっかり見ようとする気持ちを
失っていないだろうか?


 努力しても思い通りにいかないことがあるし、人に評価されないことも誤解されることもたくさんあります。結果を求めずに自分のやりたいことを続けるのは大変なことです。

 しかし、人に照らされた道を進みたくないのであれば途中で投げ出さないこと。自分が取り組んできた経験が自分の道になると信じて、これからも歩みを進めていきます。最初から自分の人生に約束された「道」など、ないのだから。

自分=自らを分ける(内面と外面)


どこかに通じている大道を
僕は歩いているのじゃない

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る

道は僕のふみしだいて来た
足あとだ

だから道の最端に
いつでも僕は立っている

何という曲がりくねり
迷いまよった道だろう

自堕落に消え
滅びかけたあの道

絶望に閉じ込められた
あの道

幼い苦悩に もみつぶされた
あの道

ふり返ってみると自分の道は
戦慄に値する

支離滅裂な
また無惨なこの光景を見て
誰がこれを
生命の道と信ずるだろう

それだのにやっぱり
これが生命に導く道だった

そして僕は
ここまで来てしまった

このさんたんたる
自分の道を見て
僕は自然の広大ないつくしみに
涙を流すのだ

あのやくざに見えた道の中から
生命の意味を
はっきりと見せてくれたのは自然だ

高村光太郎「道程」


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あいひん
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