ミチ
老子 第一章
現代語訳
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自由と平等を理想の上ではなく、現実的に見つめるためには「世の中は、自由ではないと認識する」「世の中は、平等ではないと認識する」必要がありました。
私が普段使っている「平等」という言葉は、実は『公平』が正しいニュアンスであり、平等と公平の意味を私なりに解釈すると「平等とは機会を平準化して種を摘み取ること」であり、「公平とは機会を与え、種をまくこと」になりました。
これは「民主主義」という言葉も同様、民主主義の本当の意味は「特権をなるべく作らないようにする」のが民主主義の基本だと思いますが、自由競争や自由貿易といった公平や公正に関する権利に聞こえる「自由」という言葉の魔力によって、多国籍企業や国際金融資本に代表されるグローバリストに有利な法律が次々と整備されているのが現状です。
これは、民主主義であるかのように行われている政治や経済活動も同じ状況であると言っても過言ではない気がします。
競争社会にいたころは、矛盾や苦痛を感じても、「〜のため」と頭の中で「言い訳」をしながら仕事をすることが多かったです。
そのうち自己暗示にかかって「それが正しい」と信じ込むようになると自分に言い聞かせ、「自分とは何だったのか?」と自問しないよう努めましたが、不可能でした。これは政治や経済活動だけでなく、人間関係でも同じことがいえます。
努力しても思い通りにいかないことがあるし、人に評価されないことも誤解されることもたくさんあります。結果を求めずに自分のやりたいことを続けるのは大変なことです。
しかし、人に照らされた道を進みたくないのであれば途中で投げ出さないこと。自分が取り組んできた経験が自分の道になると信じて、これからも歩みを進めていきます。最初から自分の人生に約束された「道」など、ないのだから。