to be "ONE"Part2(実存の世界:監視と規制)
オープニング
『to be "ONE"Part1』では、自分と他(それ以外)が切り離される前の「すべてがひとつ」の状態である「心=宇宙」についてまとめました。
「境界」の存在は「自分とは何か」という自己認識を容易にしますが、同時に意識を狭い範囲に限定し、自己成長の可能性を奪ってしまいます。
今回は「実存」という「主体」に関わるアプローチになります。前回同様、頭(思考)ではなく、感覚的に捉えていただけたらと思います。
意識とは?
自分なりに言い換えると、意識の探究者・研究者は自分が関わっているレベルについて語っているかぎり正しいと思います。
だからこそ、違うレベルのものを扱っている他の研究者たちの取り組みが誤っていたり間違っているように見えてしまうのかもしれません。
そこで、ウィリアム・ジェームズは、意識のレベルに応じて、認知と知覚をスクリーンに例えたのだと思います。
電磁波が周波数帯に応じて、「光、電波、放射線」のように性質や用途を変えるように、意識もそのレベルによって性質や特性を変える傾向があると考えています。
つまり、目やその他の感覚器官を通して知覚される情報処理も、人によって異なると思います。また、意識には情報を知覚しやすいように処理する働きがあるのではないでしょうか?
↑の「発達のスパイラル」はケン・ウィルバーの「インテグラル理論」のひとつです。過去に似たアプローチをする「成長発達理論」を取り上げているので、よかったらご一読ください。
それでは、ケン・ウィルバーの著書「意識のスペクトル」を参考に実存のレベルを自分なりにまとめながら、考えていきたいと思います。
実存のレベル
実存は、自分以外のものを最初に対象化し、認識する世界です。つまり、自己と相対するものとの間に最初の「境界」が発生します。
ー 実存のレベル ー
有機体全体 生の基本感覚
文化的前提の包含
+
自己イメージのシンボル化
(個別の自分という自覚を支える源泉)
あらゆる体験の主体
(内的確信)
境界
有機体と自然環境 自己と時空
このように、実存は主体と客体の関係性を相対的に観る段階となり、感覚的知覚に重点が置かれます。
西洋の心理的アプローチは「自我の強化、自己の統合、自己イメージの矯正自信の確立、目標の設定」をアシストし
東洋の神秘的アプローチは、あらゆる苦悩の根源からの完全なる自由と解放を目指して「ありのまま、あるがまま」という言葉によらない体験をアシストします。
私は自分の経験から次のことを学びました。「 個の自分=私は私である」という考え方は、明らかに幻想であると。
つまり、真理を欠いた自作の知的概念だったのです。そもそも「自分」とは、私たち一人ひとりの主観から生み出されるもの。
人間という存在は、自分自身と他者との関係において自分自身を定義するように構成されています。見えるものは鏡で見ることができるのですが、見えないものを見るには投影の対象が必要となります。
さらに、思考による分断が働くと、物事が容認できるものとできないものに分類され、葛藤が生まれます。
そして、自分自身や自分の信念を傷つけまいとするあまり、受け入れざるを得なくなるストレスによって、自分自身や他者を傷つけてしまいます。
行動が行動を生み、それが新たな疑問を生み、それがフラストレーションの無限ループを生む。
これが「無明」という盲目の状態
本人は「見えている」と思い込んでいるので、さらに見やすくするために物事を捌きまくって切り刻んでいる状態です。もはや本質から遠ざかっているにも関わらず、切り刻まれた問題をひとつひとつ見ては
これではキリが無い!
と叫び始めます。ですが、ここで気付きます。あまり考えないようにしよう、考えても仕方の無いことは、もはや自然の流れに任せるしかない。
なるようにしかならない。だから諦めよう。そうしているうちに、見えなかった自分の問題が明らかにみえてきました。
アキラめるんだ!
と。そうです。実存とは「気づき」の世界だったのです。あるがまま、感じたままに。
自然を見渡すと、そこには、無常と変化と成長のサイクルである調和と均衡のバランスが見えてきます。
苦しみとは「物事のすべては一時的である」という人生の最も基本的な事実を受け入れる難しさから生まれます。
当然ながら、その中にネガティブな感情も含まれます。ただし、感情そのものは害ではないです。この過程で大事なことはその物事を無理に受け入れようとして自分を傷つけないこと。
無明:カオス、混沌(頭の中がカラッポになる)
行:本能的な欲求、志向性
識:気づき、大域的アトラクターの成立(形を持った心的プロセス)
名色:気づきの対象が名前と形で分かれる
六処:感覚器官が働く
触:知覚が発生
受:情動的な反応、快苦(善悪)
愛:情動の一番強い形、愛憎(自分のものにしたい、離れたい)
取:習慣レベル、動物の状態、執着の状態
有:抽象的思考(愛、国、欲望など)、観念が生じる
生:有の働きで人が精神的な働きになる
老死:大域的アトラクターの消滅
出来事は、私たちの意志を越えて起こるので、その問題をクリアするまで私たちが先に進むことは許されないのです。私たちが「概念」として知っていることを「経験」として知るには、感覚的な体験を必要とします。
自分にとって便利で快適な環境は存在せず、この世の出来事は自分と他者との関係性の中でしか発生しない。つまり、単独で存在できるものなど、どこにもないのです。
でも、途方に暮れないでください。こういった状況を潜り抜けて、人は成長していくとケン・ウィルバーが諭しています。
ここから、意識の萌芽によって「知的概念」が創出し始めた頃に起こる具体的な内面の変化を取り上げます。
この絵をどう見るのか?
黒い壷or白い壺に見える
人が向き合っているように見える
この「どっち?」という判断が
知的かつ象徴に照らされた世界
ここに ふたつの選択肢を
新たに追加します
どっちにもみえる
互いの共通の境界によって
統合されているので
「どちらでもない」
どういうことか?
何に見えるか?
という思考の中でのみ
「分離される」
「ルービンの壺」のような象徴は約2〜4歳までの意識を支配するとケン・ウィルバーは指摘しています。つまり、幼少期の色や単語や象徴を用いた「刷り込み」は強力です。
単純なシンボルが単一の対象を表象するのに対し、概念は対象全体を表象します。例えると「犬」という単語が種類、性別、大きさなど、あらゆる犬を包括していることをいいます。
この概念を苫米地英人博士は「抽象度」と名づけています。この概念は人工知能開発に応用され、思考の整理や問題解決など、あらゆる分野で必要不可欠な情報工学です。
各時代における「上位概念」が「構造」となり、マトリックスになっているのではないかと思います。時代ごとの「構造」における諸問題をミシェル・フーコーが的確に指摘しているので、取り上げていきます。
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