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悟るとは

昔からわからないなりに「悟り」という状態に興味を持っていました。

悟りとはどんな状態か、
またどうすればその状態に行き着くのか、
を何度か一定期間考えることがありました。
現状の解釈を記録します。


仏教徒の目標ともなる「悟り」には、三法印というものがある。
「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」です。

諸行無常は、どんな事物も常に必ず変化したり、消滅したりするものだということ。

諸法無我は、全ての事物は互いに関連し合いながら存在していると。

涅槃寂静は、その変化して止まらない自己や万物を固定化し(我見)、それに執着する事(煩悩)を止めれば、平安な悟りの境地(涅槃)が到来するというものであるということ。

まぁ、この世の前提として、
物事は常に変化し、なおかつお互いに影響し合って存在しているよと。
その事実(ルール)を完全に理解してこの世というゲームのマスターになることが悟りの状態だと。

何となく、私は、これらのことを意識して10数年生きてきたからか、
何か予想外のことがあってもあんまり動じない様になってきました。
(驚いた様子は見せるが、本心で恐怖したり、不安になったりがない状態)

また、動じてしまうとき、動じたなと感じるときは、
「何かを変化させたくないのだな」
「その何か、は何だろう」
と考えられる様になりました。

そうすると、それが私の価値観であり、固定化された価値観なんだと気づかされます。

そうすれば、その価値観は守りたいものであったりするわけだけど、
その守りが「自分だけを守りたいものなのかどうか」を考えるようにし、
自分だけだと、すぐに捨てる様にしています。
その価値観を。

そして、本当に守りたいものを意識的に「自分以外」に置く様にします。
というより、本当に自分の成長や安心を考えると自然に「周りへの貢献」へ意識がシフトチェンジできます。
なので、決して自己犠牲的な感覚はないのです。

すると、恐怖や不安がなくなり、
判断にも迷いがなくなり、
行動にも力強さが出てきます。

これを都度繰り返すと、だんだんブレなくなります。

この状態が一種の、この世における「悟り」に近づいている状態ではないかなと感じるわけです。

〈編集後記〉
かつて、悟りを空と同化すること、と解釈してしまっていたときは、そんなん無理やん。
無理やし、できるとしたら死んだときやし、死んだ後が悟りやったら、人間みんな死ぬんなら、生きてる間に悟らんでええやん。とかいう発想になるので、なんか違和感。
この世のことには全て意味があります。
意味をつけてしまうというのか。
なら、産まれたこと、生きていることも意味があるので、なんか違和感。
ということで、これからも考えて生きていきたいと思います。

皆様はどう感じましたでしょうか。
違う意見、同感、ここから先の世界を知っている方、是非、私に学習させてください。
ありがとうございます。