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世界は一つ。ではない

朝、園の前の道を掃除していました。

いつもは、保護者の方やお子さんが来られる前に終わる程度なのですが、
今朝は、気合が入ってしまい。

道路沿いの雑草、雑木の処理や、
何も生えていない土の整地をしていました。

すると、お子さんを送って来られるお母さん方とお会いするのですが、

「大変ですね、ありがとうございます。」
「今朝は暑いですね。ご苦労様です。」
と声をかけられる方もいれば、 

「いつも、ありがとうございます。」
私「行ってらいっしゃい。」
「行ってきます。」
って方も。

「おはようございます。」スタスタ
って方も。

保護者「何されてるんですか。」
私「雑草を抜いたりして、園周りを綺麗にしてます。」
保護者「園長先生、草を抜いてるんだって」
スタスタスタ
って方も。

自転車で通り過ぎる人が、
怖い顔でチッ(邪魔だよ)って感じの方もいれば、
笑顔で会釈をされる方も

色々ですね。

私は、彼らが同じ世界に住んでいるとは思っていません。

同じ道を通る、同じ地域に住む人達ですが、
見えているものは、全く異なります。


私達は、常に生きる世界を選べます。

長い間住んでいた世界からも、
移住できます。


「大変ですね、ありがとうございます。」
や、
「今朝は暑いですね。ご苦労様です。」
と言える人は、相手の体調を気遣ってくれていると同時に、私の行動に価値を見出し、また私に対して価値付けをしてくれているのです。
無意識のうちに。

私は、これらの方は、創造者と思っています。
価値を作り出し続けます。

「おはようございます」スタスタ
の人は、私のしていることが見えていないのかもしれません。
もしくは、やって当然のことをしている、と思ったのかもしれません。

「何されてるんですか。」
「雑草を抜いたりして、園周りを綺麗にしてます。」
「園長先生、草を抜いてるんだって」スタスタスタ
の方は、自分主体で周りの景色を見ています。
自分のこどもに、目に映る光景の情報を与えるためだったのかもしれません。

これらの方は新たに価値を創り出していません。
むしろ、情報を取る側なのです。

またこの違いは、積もってくると大きな差となって、自分や自分のお子さんに帰ってくるでしょう。

まあ、細かく言うと様々な分類があると思いますが、
言いたいことは、
みんな違う世界で生きているということ、
そこには、(身近なところにも)創造的な世界もあれば、搾取の世界もあるということ、
そして、その世界らは移住可能であるということです。

私は、どんな世界に生きようかな。