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《私なりの死生観と哲学》
「私、死ぬと思って生きてるんですよ!!」
酔っ払いながら、60代の高校の大大先輩に向かって言い放った言葉である。
なるほど、私は一旦、人生を《死》の方面から見て《生》を感じているみたい。
"いつか" 誰でも死ぬのである。
それは紛れもない事実であり、
ここで、
「どうせ死ぬんだから」
と思えたり、終わり方を考えながら
生きれるのは、
私は心地が良いことだと思ってる。
そして、幸せなことだと思っている。
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私がこうやって、自分の気持ちを
言語化したり、言葉にして消化していく、ということを本格的に始めたのは、
大学2年生の頃に受けた、『哲学』の授業からだったと思う。
(小学生の頃からポエムみたいなのは書いてたけど。笑)
哲学の授業は、他の授業とは違って、
オンラインで直接は話せなくても、
一緒に受けている同級生や先輩と意見交換ができる時間がほとんどだった。
今まで、特に高校生までの授業は、
『正解』を導くための授業だったり、
最初から『正解』を教えてもらい、覚える、という作業の繰り返しだった。
一方、哲学は『答え』がないので、
つまり『正解』もない。もちろん、
これはちがう、という『不正解』も。
だからこそ、哲学の授業は本当に新鮮で、
私の週2日の楽しみになった。
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そんな時、私にとって人生最大の悲しみ、がやってきた。
当時はコロナが大流行中だったので、地元に帰省することができず、ゴールデンウィークも大人しく大学寮に篭っていた。
家族に電話なんて頻繁にかけないけれど、ばあちゃんが体調を崩し、少し心臓を手術すると言って、実家に泊まっていたので、久しぶりにビデオ通話を掛けた。
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それが、最後だとは本当に思っていなかった。当然、何を話したのか、たわいも無いことなので覚えてない。そんな最後だった。
5月末、頃だったと思う。
母親や姉の連絡から私が知る限り、
容態が悪くなってばあちゃんが入院している、と。コロナ禍にもかかわらず、病室に面会に行けるということ。
話すことができず、ずっと喉が渇いて、会いにいくと、『水、みず、』と訴えること。とにかく、とにかくキツそうなこと。そして、私は会いに行きたいのに、行けないということ。
このどうしようもない、もどかしい気持ちをどうすることもできなかった。怒りや悲しみ、ウイルスに言ったって何も変わりやしない。祈ることしかできない。
でも、そんな状況でも、私は信じていた。最後なんて、終わりなんて信じられなかった。
急いで新幹線に乗り、泣きながら、
バスに乗り換えて、泣きながら、
ばあちゃんへの手紙を書いて泣きながら、棺の中のばあちゃんと再会するまでは。
きっと、ばあちゃんの弱っていく様子を見ていた母親や父親、姉の方が辛かったしキツかったと思う。だけど、こうやって最後をしっかり看取れないのも苦しいのだ。
大切な人を失うのがこんなにキツくて
苦しいなんて、とてもとてもこの悲しみを受け入れることができなかった。
大学進学して1ヶ月以上実家に戻ることはなかった私にとってこの思わぬ帰省期間は、とにかくゆっくりゆっくり過ごせる時間だった。それでも、とにかく受け入れられず、泣いていた。苦しかった。
私は、おばあちゃんっ子だったのだ。共働きの両親と、年の離れた兄姉の末っ子だったので、ひとりごとやひとり遊びをしている横にいつもいたのは、ばあちゃんだった。パチンコの景品で貰ってきたお菓子をもらうのが楽しみだった。二人で朝ドラの話をするのが好きだった。
誕生日に毎回美味しい赤飯を炊いてくれた。
この年は、私が二十歳、つまり成人式だったので、当然ばあちゃんに振袖姿を見せられると思っていた。とても、とても受け入れるはずがなかった。
一方、「死」って、あっけないんだな、とも思った。あ、そりゃそうだ、死ぬんだよな。自分の母親も父親もいつかは。もちろん私も。そりゃそうだよな、人間だから。でも、やっぱり悲しい。そりゃそうだよな。死んだんだから。もういないんだから。消えちゃったんだから。
こんな時、救われたのが『言葉』だった。そして、『哲学』でもあった。
悲しみにくれていた帰省を切り上げて、大学寮へ戻る道中、駅の本屋の特設コーナーに置いてある、1冊の本のタイトルに、目が留まった。
『あした、死ぬかもよ?』
さらに、手に取って立ち読みをした時に
読んだ言葉が、スっと入ってきたのだ。
『あなたが産まれた時、あなたは泣いていて周りの人たちは笑っていたでしょう。だから、いつかあなたが死ぬ時、あなたが笑っていて、周りの人たちが泣いている、そんな人生を送りなさい -ネイティブ・アメリカンの教え』
ばあちゃんの人生はどうだったか。
周りの人間は泣いていた、現に私がこんなに悲しくて泣いている。
誰かが、あなたの人生は素晴らしかった!と言う訳でもないし、なんなら言われたくもないし、神様や誰かがジャッジすると言っても、そんなの死なないと分からないし。
哲学には、もっといえば、ブッダは、
『生きることに意味などない。』
と教えている。
《生きるというのは、単に母体から生まれてきた生物が、年をとって、徐々に衰えていき、ついには寿命を迎えて死んでいく、ただそれだけの話。 だから、生きること自体には意味などないのですという。 人間が死ぬことは、どう抵抗してみたところで避けられない事実だから、「どうして生まれてきたのか」という質問には誰も答えられない。》
なるほど。
ネイティブ・アメリカンの言葉もブッダの言葉も、スっと入ってくるんだけど、全く逆のことを言っている気がする。哲学っておもしろいな。
哲学のレポート課題のテーマは
自由に選べたので、私は『生と死』に向き合ってみることにした。
最近『死』と向き合ってすごく苦しかったのに、このテーマを選ぶのなんて私も中々スパルタだったけれど。自分の考えを言葉にすることで、書き終えた頃には、前よりは『死』を受け入れつつあることにも、ちょっとだけスッキリ消化していっている感覚もあった。
このレポートで私は、日本の武士、や特攻隊の生き様、を取り上げた。
日本はどちらかというと、死後よりも
生き様、そして死に際、最後を大切にする傾向にある。武士や特攻隊に共通するのは、『死』が常に隣り合わせで近いということ。だからこそ、『生』にこだわる。
死が近いからこそ生をないがしろにせず、終わり方を常に考える。その為には
誇れる”生き方”にこだわる。
『生きることに”意味はない”』
という考えとは相反して、むしろ意味がないのだからこそ、
『生きることに”意味”を付ける』
のかもしれない。
そして、私は、
『生きることに”意味”を付ける』
人生を 生きたい、と思った。
『生きることに”意味が無い”人生を、
“意味”を持って生きたい』と強く思った。
本当は、そんな事考えない方が
苦しくないかもしれない。
もしかしたら、もしかしなくても
生きづらいかもしれない。
ただ、私はその人生の中で答えのない
『幸せとはなにか』とか、『豊かさとは?』
『働くってなんだろう?』
『大人になるって?』
突き詰めると、
『自分って何者か?』
みたいな問いを探求していきたい。
だから、私はずっと。
『こころの探求者』でありたい。