いにしえのゆる(すぎ)中学受験の話
若い頃の記憶は意外となくならないので記録しておくこともないと思っているが、もしかしたらリンク先として活用するかもしれないので。
今風にいうと、#中学受験199●(流石に伏せる) な、私自身の話である。
私は神奈川県の北部にある政令指定都市のど真ん中で、シングルマザー(離別)の小学校教員をしている母と祖母、独身の伯父という少々変わった構成の家庭で育った。因みに住んでいたのは母の実家で、当時で築40年、木造平家建て+一部二階建てで、よく言えばクラシカル、悪く言えばかなりボロい家だった。
夫と早くに死別してから近所の人の服を縫うことで生計を立てていたらしい祖母が、唯一の孫に縫った服を何の疑問もなく着ていたらついたあだ名が貧乏だったし、家もボロいし、流行っていたファミコンやらゲームボーイやらも絶対買ってもらえないし、友達の家みたいに学習机を買ってもらえずに居間の書き物机で勉強させられていたし、その教材も母が勤務先の学校からもらってきた見本用とシールのついた教材か母手作りの漢字テストなんかだったので、うちは本当に貧乏なんだ…と信じていた。
時々、無料だから受けなさいという言葉に従って、Nのついた進学塾のテストだけ受けに、三駅先の塾に連れていかれることがあった。
国語はそこそこわかるものの、算数は真ん中くらいからわからない問題だらけだったが、帰りに近くのデパートでアイスやお菓子を買ってもらえるから喜んで受けに行っていた。
小学生だもの。
テスト後に入塾案内と結果のシートが同封された封筒が届くが、一週間前に受けたテストのことなど覚えているはずがない。
母は特にコメントするでもなく、なんならテストの結果を見せることもなかった。復習なんてするわけがない。
小学生だもの。
勉強自体は嫌いではなかった。友達と遊ぶことも多かったが、ピアノの練習以外は家でやることもないので、「教材見本」とシールが貼られたドリルなどを適当にやっていた。
母は私と同じく雑なので、見本をもらってくる教材の対応学年も教科も難度もまちまちで、小6の問題なんかも1年生の時から普通に置いてあった。
かくして、学校の勉強は全てがやったことがある内容であり、四科と音楽の成績は良かった。体育?知らない子ですね…
貧乏な家の子と思われていたこと、頭でっかちに口ばかり達者だったこと、身体的特徴(幼児期からの遠視で眼鏡っ子だった)、片親だったこと、などなど複数の要因が組み合わさり、更には少々治安の悪い地域の学校だったため、よく男子からのいじめのターゲットになっていた。
そして主ないじめっ子と同じ中学に通うことになることを悟り、中学は不登校になって受験勉強して絶対いい女子高に行こうと密かに思っていた。
内申点という仕組みは知らなかったのだ。
まぁそんな荒れた地域なので、少しお金がある家は子供を中学受験させる。
当時は、5年生くらいから、地元の塾に行くか、私もテストを受けに行った三駅先の塾に行くのが一般的だった。
しかし、「貧乏」家庭であるところの私はその波にも乗らず、スーファミを持っている子の家に遊びに行ってはゲームの世界に触れていたので、当然塾には行っていない。受験なんてしないんだと思っていた。
ある日、母が本屋で一冊のオレンジ色の本を買ってきた。
そこに書いてあったのは、近所にある女子校の名前。いわゆる過去問集というやつだ。
だが、置いてあっただけ。
そのほかに自由自在という分厚い本もあった。
これも、置いてあっただけ。
小学校教諭の母は、私に勉強を教えることはあまりなかった。今ほどではないが、兎角あの仕事は忙しいし、そんな暇はなかったのだろう。
寝る頃にも母が持ち帰ってきたテストの採点をするペンの音が聞こえていたくらいだ。
では、置いてあった参考書や過去問はどうなったのか。
やるわけがない。
小学生だもの。
だが、国語の自由自在に載っていた「読んでおくべき本」で気になったのは読んだ。
国語教諭の免許を持つ母はたくさん本を持っていたから、勝手に本棚から本を出して読み、片付けをせずに放り出しては怒られた。
算数は、何言っているのか全くわからなかったので放置した。
過去問は、本当に意味がわからなかったので解かなかったが、学校案内のページだけは読んで、ものすごく近所(徒歩で行ける)にあること、音楽大学が上にあることはわかった。
しかし、中学受験ということ自体、私の人生にはないのだろうと思っていた。
同級生の受験をする子は皆夜まで塾に通って、帰ってきてから更に勉強するらしいと聞いたし、クラスの女子は半分くらいピアノを習っている時代だったが、塾が忙しくなってきたらみんな辞めてしまった。
私は、5歳から続けていたピアノを辞めることなく、皆が精々ソナチネくらいをやって辞めた後も古典派のソナタなど弾くようになっていた。上手いわけではない。
これくらいになると、別に本格的に学ぶ子でなくとも毎日一時間くらいは練習しなければ次のレッスンまでに弾けるようにならない。
塾から帰ってきたら、近所迷惑になるから練習なんてできたものではないので、ピアノと受験は両立できるはずがないのだ。
そして私はピアノを続けていた。
受験するわけないな、と確信した。
小6になっても相変わらずそんな生活だったが、ある日また三駅先の塾に行ってテストを受けた。
受験票が黄色かった。
四科を受けたが、国語と歴史以外知っている内容の方が少なかった。
国語にしても、長い文章に知らない文法用語、たくさんのマス目が並んだ解答用紙、そういったものには歯が立たない。
算数は、最初の四則演算以外、書き出しで解けるもの以外は解き方もさっぱりわからない。
一週間後、答案と共に黄色い成績表が送られてくる。
国語:偏差値48、算数:偏差値30台前半。
それを見た母は、やはり何かしろとも言わず、次の模試の日程だけ確認していた。
模試は何度かあったが、勉強していないのだから成績が上がるわけがない。
大体何をすればいいのかもわからない。
そして、勉強したところで、受験しないなら無意味なのだから、と、相変わらず友達の家でゲームに興じていた。
夏休み、夏期講習を受けるかと言われたので、暇だし受けに行くことにした。
大手の受験塾は無勉強の小6など受け入れてくれない。
友達が通っていた、超小規模な塾が入れてくれたのでそこに通った。
毎日の計算テストと漢字テスト、予習シリーズと思われるテキストで国語と算数を合計3時間ほど。
この時、日暦算のルールと、3の倍数の見付け方だけは理解した。国語は正直何やっているのかわからなかった。
しかし、この程度で偏差値が上がるかといえば、そんなわけがない。
遂に算数は150点満点で15点というスコアも叩き出した。偏差値20台という数字があることを知った。
秋以降判定がある志望校には、オレンジ色の過去問集にあったのと同じ校名が、試験回数分書かれていたが、当たり前に再考と出た。
小学生でもわかる。絶対無理だ。
秋には修学旅行で日光に行くのが、自分の住んでいた市ではお決まりだった。
夜になると、結構仲良くしていた友達がリュックからタウンページかと思う程分厚い本を取り出して、勉強を始めた。
三駅先のNがついた塾のものだ。
見せてもらうと、いつだったか解けなかった碁石を並べる問題の解き方が書いてある。
「方陣算?やり方覚えたら簡単だよ」
そう言ったその子は塾でもトップのクラスを維持、御三家の一角を受けると言っていた。
説明してもらったが、碁石の絵を描き続けるよりは絶対早く解けるんだろうな、とは理解した。
そして、彼女をはじめとした塾通いをしている子たちにはそんなものは常識で、たった一泊二日の修学旅行中にまで勉強しなければいけないくらい毎日勉強しているのだ。
多分その子の受ける学校と比べたら大したことがないんだろう、近所の私立中であっても、6年間ほぼ塾にも行かずに読書とお絵描きと学校レベルのドリルとピアノしかやっていない私が敵うわけがない、そう思った。
そんなわけで年末年始もごく普通に過ごした。
一つだけ違うのは、毎年のように行っていた旅行がなかったことくらいだ。
年が明けると湯島天満宮に連れて行かれた。結構な坂を上り、お詣りをして、四角い鉛筆を買ってもらった。
「来月○○だけ受けるから」
母はそう言ったが、受かるわけないのだと、わかっていた。
受験票に貼る写真は撮りに行ったが、受験するということがわかっても、やはり勉強は殆どしなかった。
遅くとも5年くらいから勉強して、休みも旅行などには行かずに講習、修学旅行にもテキストを持ち込んで勉強した人たちを相手にあと一ヶ月もない状態で何が出来るというのだろう、と開き直った。
過去問は一回くらい、解ける問題だけ解いたかもしれない。
そうして1月30日。
学校から帰ってきてから、ストーブの前を離れられない程の酷い寒気に襲われた。
祖母にストーブから引き剥がされて近所の耳鼻科に行くと、「うーんこれ、インフルエンザだね」と言われた。時代が時代なので検査などない。
保育園児の頃ならともかく、発熱することなど滅多になかった私には、一大事だ。
翌日から学校を休んだ。
正直これで無茶な受験したことが誰にもバレずに終わるし、なんなら受験できないから良かったかもしれない…と思いながら。
熱は2月1日の夜に平熱になった。
本当にインフルエンザだったのかは今でもわからない。
2月2日に第一回の試験がある、地元の私立中改め志望校の試験にはギリギリ間に合ってしまった。
病み上がり、まだ万全ではない体調だったが、元より無理な受験だ。多分結果は変わらなかっただろう。
国語は辛うじて全部埋められた。
時々受けていた模試よりはずいぶん簡単だったが、自信があったかというとそうではない。
算数はさっぱりで、せめて計算問題だけと三回検算したが、毎回その結果が違うものだから、果たして正解だったのかはわからない。
計算以外は本当に何も書けないまま、試験時間が終わった。
二科目受験なので試験はそれで終了。
当時から即日発表だったが、夕方の予定だったので一度家に戻った。
夕方の発表。
自由研究で使うような模造紙で貼り出される合格者の受験番号に、当たり前だが自分のものはなかった。
当然の結果だ。勉強していないのだから。
ショックのかけらもなく、完全に開き直った様子の私に、母は「もう第二回受けてもどうせ落ちるから受けなくて良い」と言った。
ここで引き下がっても別に良かったのだと思うが、反抗期真っ盛りだからだろうか。
「受験料払っててもったいないから受けるだけ受けるよ」
と売り言葉に買い言葉。
結局、翌々日の第二回試験を一人で受けに行くことになった。近所で助かった。
試験前日。
何もしないで受けに行くのも良くないと思い、殆ど置物と化していた算数の自由自在を開いた。
二時間ほど、植木算をやっていた。
大体の問題が解けたところで「今更やっても遅いんだから早く寝なさい」と祖母に言われて勉強を終えた。
そして、2月4日。
一人で試験場に向かった。母は仕事に行った。
国語は全部埋めても時間が余ったので、漢字の間違いがないか隈なく探した。直すところは特になかった。
算数は相変わらず計算だけ。
前の日に勉強した植木算は全く出なかった。
代わりといってはなんだが、方陣算があったので、碁石の絵を延々と書いて答えを出した。あとは円の出てくる問題は、3.14の倍数を当てずっぽうに書いておいた。
それでも解答用紙はほぼ白紙だ。
試験を終えて一人で家に帰ると、そのままストーブの前でダラダラしていた。
合格発表の時間が近くなってもその調子で、見に行かないなどと言う私に、祖母が
「受けたんだから見に行きなさい!」
と、インフルエンザの時と同様にストーブから引き剥がし、合格発表についてきた。
前回よりも少ない枚数の模造紙に、絶対受かるわけがないと確信しながらも、見ないことにはこの寒空の下から帰れないのだし、と一応の確認を始めると……
番号があった。
私の「あれ?あった」に、祖母から返ってきたのは「うそ」だったか。
どちらも全く信じていなくて、手元の受験票と掲示を三度見くらいした。
漸く掲示と受験票の番号が一致していると理解してから、事務室で分厚い封筒をもらい、家に帰った。
斯くして私は、大した努力もせず、ゆるすぎる受験を終えた。
受験の苦労を知らず、結果だけを手にしたことで後々困ることになるなど、知る由もなかった。
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