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ヨリソウ


くまさんの企画が広がりを見せていますね。

人生のいろんなことを見渡したくなる企画。
大事なことを考えさせられます。


先日、くべおばさんの参加noteにも、ぐっとつかまれました。

>「最期に何食べたい?」
と聞いてくれる人、悩んでくれる人がいるというのが素敵だし、人間らしいなと感じます。

>誰かに、
「最期に何食べたい?」
と真剣に尋ねたり悩める事が、答えの絶対に出ない大切な事に感じます。

>だから正解も不正解もない、誰かの人生の最期に寄り添える人間になりたいなと思います。

答えが出ないからって、尋ねることは止めたくない。寄り添い、一緒に探し続けたい。
くべさんの思いに、深く深く共感しました。


私は取り越し苦労したがりだし、すぐ結果を見たがるし、
完璧主義だし、バクゼンのくせに短絡的思考の持ち主であります。

でも、重度障害をもつ長男との三十数年で、毎日、じわじわと矯正されてきた所もあるかなと思います。

その時間のなかで、とっても印象的なのが、前にも記事で触れたことのある
行動障害のケアのための講習会です。

参加者20人ほどがペアになり、片方が利用者、もう片方が職員、という設定で、やりとりをします。
この時は「絶対に(食堂に)食事に出て行かない利用者」と「なんとかして食事に連れ出したい職員」という状況でのやりとりでした。

職員役は、強引に引っ張りだすのではもちろんなく、あれこれと言葉で説得してみるのです。で、利用者役は、絶対に拒否する。

介護や療育の現場では、こういう状況はしばしば目にすると思います。

職員役になったとき、いろいろと「あなたのため」を言ったり、お願いしたり、来てくれたら自分が嬉しいんだとか、もう「ほんとに私そう思ってる?」的なことまで口にして、懇願しました。
でも最終的には、「はい、わかりました。」と、説得を諦めます。

私は、利用者の気持ちを大事にしたい、そんなにしつこく言わなくてもいいじゃないかと思いながら、不本意な説得をしていたので、ほっとして職員役を終えました(きっと参加者の大多数はそうだったと思います)。

つぎは利用者の役になります。
とにかく「いやだ」「ううん」「食べない」。
言葉を使わない人だとしたら、ひたすら拒否の態度で通します。
やがて、職員は説得を諦める。

この時に、ほんとに意外だったんですが…悲しかったんです。
お約束の結末だし、説得を諦めてくれてほっとしたけども、悲しい。寂しい。
ひとりぼっち。見放された。
そんな思いがにじむことに気が付きました。

じゃあ素直に食事に行けばいいのに、てなもんですが、そうじゃない。
このお芝居が、「絶対に拒否」という条件になっている意味がそれなんでしょう。
気持ちを大事にされても、きっと心は寂しいんじゃないだろうか。
満足かもしれないけど、寂しさは残るのではないかな。

拒否の気持ちを受け入れて去るほうは、離れる相手の寂しさに思いを至らせることが必要かもしれないな。
最初に私が思っていた「利用者の(行きたくない)気持ちを大事にしたい」は、片手落ちだったと気づいたんです。

だからって、じゃあどうしたらいいのかは、わかりませんでした。
ただ、相手はそういう寂しさの中にとり残されている、ということを
仮にも味わうことができた。そのことはよかったし、貴重な経験だったなと思います。


もう一つは、「お母さんは?」と問い続ける利用者への対応の場面。
これは講習会を主催する人の施設で、実際にあったお話ということでした。

朝、お母さんが利用者を事業所へ送って来て、そのまま仕事へ行く。
利用者はしばらくすると、職員をつかまえては「お母さんは?」と問い始める。
「仕事に行ったんだよ」「夕方、迎えに来るからね」
何度そう言っても、「お母さんは?」と言い続ける。
「お仕事一生懸命にやってるんだよ」とか「大丈夫だよ、何か心配なの?」とか、どう言ってみても、「お母さんは?」。

利用者が欲しい答えはなんだろう。
職員は頭をひねって、あれやこれや、思い合わせては、敗退?を繰り返します。
結局、たどり着いた答えは「お母さんは元気だよ」。
それでピタリと問いは止んだのでした。


自分ではない人のほしい「答え」は、なかなか見つからない。だけど、
「真剣に尋ねたり悩める事が、答えの絶対に出ない大切な事に感じます。」
という、くべさんの言葉に強く共感しました。

ひたすら、探すしかない。
でも、もしかしたら、答えが一番大事、ってわけではないかもしれない。
その人の最善を一生懸命に探すことが、心を砕くことが、そこにまつわる思いの一つ一つが、大事なのかなと思います。


次男はよく私に職場での失敗を話してきます。
あまりに悩むので、しかも自己評価かなり低めなので
つい、あれこれと解決策を考えたり、励ましたりしてしまいます。
いつか上から目線になっている自分に気づき、まずかった!と思います。
きっと次男が求めているのは、対策ではなく、まじめに、真剣に、聞いてもらえることなんだろうなと思います。


最近、「寄り添う」という言葉が多く聞かれます。
あまりに消費されて、ちょっとやせ細って聞こえますが、今回書いて来たような場合では、その「寄り添う」が必要になるんだろうなと思うのです。
体温を持った「寄り添う」が。

>だから正解も不正解もない、誰かの人生の最期に寄り添える人間になりたいなと思います。

答えが出なくても、一緒に歩いてくれる。
歩幅を合わせて、隣を歩いてくれる。
きっと自分もそういう人を求めているし、自分もそういう人になれたらいいなと思いました。


くまさんの「さいごに何食べたい?」という企画は
私にとって、長男と生きてきた三十数年の中で、いつも発していた問いだったように思いました。
いつも顔を見るたびに「何を望んでいるの?」と感じながら暮らしてきた。
「さいごに何食べたい?」「食べたいものある?」に流れ着くのかな。

でもそれは、私たち親じゃなく、だれかさいごに寄り添ってくれる人に託したいです。



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