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桜茶房に宿る心 ~古い暖簾の向こうで育つ、ふたつの眼差し~

 町外れの小さな和風喫茶「桜茶房」は、古い土蔵を改装した建物だった。藁葺き屋根を思わせる黒い瓦と、重厚な木の扉。その扉を開くと、柔らかな行灯の光が落ち、白木のカウンターと、菫色の座布団が配された小さな卓がいくつか並んでいる。壁には淡い墨色で描かれた春の山河の掛け軸。床の間には、一輪挿しに差した季節の花。梅雨を間近に控えた初夏の日差しが、店の格子窓からゆるやかに入り込み、畳に揺れる光の斑点となる。

 ここ数年、店の切り盛りを一手に担っているのは、まだ三十代半ばの女性、由紀だった。黒髪をすっきりとまとめ、白い上っ張りに淡茶色の前掛けを締める。しとやかながらも芯のある眼差しで、客を迎え、茶を点て、季節限定の甘味をさりげなく薦める。由紀がこの店で働き始めたのは、彼女が二十代の終わり頃。以前は別の喫茶店でアルバイトをしていたが、その店が急に閉店し、途方に暮れていた時に桜茶房を知った。面接に訪れた日は小雨が降っていて、薄暗い中で見上げた店の看板は手書き風の優しい書体だった。店内に足を踏み入れると、当時はまだ先代の老女将がいて、「ここはゆっくりしていけばいいわよ」と笑みを見せ、菓子と濃い目の抹茶を差し出してくれた。その静かな時間の流れに魅了され、彼女は自然とここで働くことを選んだ。

 しかし、老女将は数年前に亡くなり、店の名義は遠縁にあたる玲二という男のもとへ移った。玲二は都会のマンションで暮らし、桜茶房へ顔を出すことはほとんどない。由紀は、名目上の「店主」が不在であることを不思議に思いながらも、次第に気にならなくなった。なぜなら日々店に訪れる客たち――和服を好む老夫婦、近所の短大で美術を学ぶ学生、仕事帰りに静かな空間を求めるサラリーマンたち――そうした人々とのやり取りや、掛け軸を替え、花を活け、器を磨く日常こそが、彼女にとっての店の鼓動だったからだ。

 ある日、梅雨入りが近づく頃、由紀は棚卸しをしていて、仕入れ先との支払いがやや滞っていることに気づいた。ここ数か月、客足は決して悪くなかったが、道向こうに新しい喫茶チェーンができてから、少しずつ常連が減っているような気配があった。桜茶房は古風な趣だがメニューは限定的で、若い層がSNSに上げたくなるような派手さはない。店内は静かで落ち着いているが、その良さが今の流行に埋もれつつあるのかもしれない。
 「もう少し何か工夫が必要かもしれないわね…」と彼女は独り言を漏らした。例えば季節ごとに違う和菓子を自家製で出すとか、新しい茶葉の仕入れ先を探すとか、内装を微妙に変えてみるとか。いくつかのアイデアが頭に浮かぶ。だが、問題は予算だ。この店の大きな決定権は、名義上の当主である玲二が握っている。とはいえ、玲二はメールを送っても返信は遅く、返ってくるのは素っ気ない文面だけ。「現状維持でいい」とか「余計な出費は控えてくれ」などの短い返答。由紀は溜息をついた。せめて一度でも顔を見て話ができれば、と何度思ったことだろう。

 その週末、滅多に姿を見せない玲二が、突然店へやって来た。初夏の陽光を背に、ブランドもののジャケットを羽織り、足元は磨き上げた革靴。由紀が「いらっしゃいませ」と声をかけても、軽くうなずくだけ。彼は店内をぐるりと見回し、客席がまばらであることを確認すると、低い声で言った。「ここをどうするか、考え直さないとな」
 由紀はカウンター越しに彼に近づいた。「店を…閉めてしまうおつもりですか?」
 「今すぐじゃない。ただ、あまり儲からないようなら、貸し出すか、いっそ売ることも考えなきゃな」
 その言葉は由紀の胸に重く響いた。彼女は皿を拭く手を止め、瞳を伏せて考える。この店は、たとえ華やかさはなくとも、ゆるやかに時間が流れ、人々が静かにほっと息をつく場所だった。先代が紡いだその雰囲気を、彼女は大切に守ってきた。いつしか彼女は、この店をただの「職場」ではなく、自分自身が根を下ろす庭のように感じていた。誰が名義を持とうと、この空間そのものは彼女の手で形作られているとさえ思えていた。

 夜が更け、玲二は結局、一杯のアイスコーヒーを味もわからぬ様子で飲み干し、「また連絡する」とだけ言い残して店を後にした。由紀は残った客への対応を続けながら、心がざわめくのを抑えられなかった。閉店後、障子を閉め、暖簾を下ろし、カウンターに腰掛けた彼女は、静かに頭を抱える。桜茶房はどうなるのだろうか。工夫すれば客を呼び戻せると信じていたが、大きな出資なしでは新しい試みも難しい。どうすればいいのだろう。

 翌朝、由紀は早めに店に来た。まだ薄暗い中、換気のために扉を少し開けると、風がふわりと入ってきて、障子をかすかに揺らした。彼女は抹茶茶碗や急須を丁寧に洗い、白木のカウンターに手のひらを当て、その木目をなぞる。ここにいると、まるで昔から店と心が通じ合っているようだった。彼女は薄紅色の椿の花を花瓶に生け、新しい生菓子のアイデアを考え、上生菓子職人の友人に相談するためのメモを取る。仕入れ先にも掛け合い、新種のほうじ茶葉を少量試してみることも計画した。店をより良くするためなら、細かな手間を惜しまない心境だった。

 ほどなくして常連客が静かに入ってくる。杖をついた老紳士は小声で「今日もいい香りだね」と言い、由紀は微笑みながら濃いめの煎茶を淹れた。美術学生はスケッチブックを広げ、新しく活けられた椿の花を見て、目を輝かせる。サラリーマンは新聞を開き、時折ため息をつきながらも、ここで朝のひとときを過ごすことで仕事に戻る活力を得ているようだった。その誰もが、由紀の心配を知る由もない。ただそこにある穏やかな空気を享受し、またそれぞれの生活へ戻っていく。

 昼過ぎ、由紀は一度店を閉め、裏の小さな庭で新しく導入を考えていた茶葉を試すため、急須に熱湯を注いだ。香りを確かめ、味の深みを舌先で感じる。悪くないが、まだ何か足りない…。彼女は庭を見渡す。苔むした石、梅雨を前にした紫陽花の蕾、雨音が似合いそうな木戸。先代が好んでいた掛け軸には、薄墨で描いた山の稜線があり、その頂にはかすかな霞が漂っている。静寂の中に、新しい一歩のヒントがある気がした。

 翌週、ついに玲二がメールを寄越してきた。「来月末までに収益が上向かないなら店を閉める」と短く書かれていた。由紀は心の底に強い焦燥を感じたが、それを表に出すことなく、黙々とできることを続けることにした。新しいほうじ茶を試し、器の配置を少し変え、繊細な和菓子職人との交渉も続けた。近所の和紙屋へ足を運び、新たな懐紙を取り寄せ、茶菓子を載せた時の見栄えを考える。彼女は、法的な「所有者」ではない。だが、その日々の積み重ね、その心配り、その祈るような想いは、紛れもなくこの場所に根差し始めていた。

 そんな折、近隣で夏祭りがあるとの知らせが届いた。町中が提灯を下げ、通りには屋台が出る。由紀は思いついた。祭りの日に合わせ、特製の抹茶アイスと季節の涼菓を期間限定メニューとして出してみてはどうかと。祭り帰りの人々がひと息つく場所としてこの店を思い出してくれれば、客足は戻るかもしれない。賑わいがあれば玲二も考え直すかもしれない。

 祭りの当日、陽が落ち、提灯が赤々と点り始める中、店の軒先にも小さな行灯を出し、特製のメニューを書いた和紙を掲げた。通りには子供たちの笑い声、浴衣姿の若者たちの談笑が行き交う。由紀の心は小さく鼓動を速めている。もともと静かな店が、今日はどれほど受け入れられるだろうか。

 すると、祭り見物を終えた数組の客がひっそりと店に入ってきた。「ここ、前から気になってたんだけど…」「落ち着くね」と囁き合い、冷たい抹茶アイスや涼しげな和菓子に舌鼓を打つ。常連客もやって来て「今日は活気があるね」と笑う。由紀は忙しく動き回りながらも、喜びを噛みしめた。茶杓を取り、茶を点て、和菓子を盛り付ける。ここをただの古い店ではなく、訪れた人が新たな記憶を刻む場所にしたい。彼女はどこか心でそう願っていた。

 夜も更け、客足が落ち着いた頃、ふと玄関を振り返ると、そこには玲二が立っていた。意外な来訪に、由紀は一瞬言葉を失う。玲二は祭り帰りなのか、少し汗ばんだ額に手をやり、店内を見回した。普段より多い客。生き生きと動く由紀。掛け軸、花、控えめな照明、細部にわたる気配り。この店が単なる不動産ではなく、人を惹きつける力を持つことを、彼は初めて少しだけ理解したようだった。
 「賑わってるな…」と彼はぽつりと呟く。由紀は静かに微笑み、「今日は特別です。でも、こういう日を作れるように頑張っていきたいんです」と返した。玲二は何も言わず、小さく頷いた。

 その後、玲二が店をどうするか、明確な答えはまだ出ていない。だが彼は、その日のうちに「もう少し続けてみてもいいかもしれない」とメールで書き送ってきた。それは素っ気ない文面だったが、由紀はそこにかすかな譲歩を感じた。たとえ「正式な名義人」は彼でも、この場所がどれほどの思いと手間によって紡がれているか、薄々感じ取ったのだろう。

 翌朝、由紀はいつも通り店を開ける。畳を清め、花を生け、新しい茶葉を試す。彼女は店そのものに語りかけるように、「今日も、よろしくね」と心中で呟く。外の世界は移ろいゆくが、この静かで温かな空間を守り、育てる手は確かにここにある。彼女は所有者ではない。それでも、この場所の輝きは彼女の存在なくしては生まれなかっただろう。藍色の空の下、桜茶房には、まだ見ぬ季節が、まだ語らぬ物語が、ゆるやかに育ち続けている。

題: オーナーとオーナーシップ


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