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『とぐろを巻いて』 第Ⅰ部

第Ⅰ部「不一致」



登場人物(第Ⅰ部)


               劇作家 天地百郎      (35)
            テレビ局社員 財前真紀      (35)
                医者 真中信行      (35)
             若手演出家 若田部厳      (27)
           広告代理店部長           (50)
           子供時代の天地           (8)
               その父           (38)
              浴衣の女           (25)
               看護婦           (23)
            散歩中の婦人           (42)
            トイレの老人           (74)
           テレビ局の上司           (50)
             投書整理係           (21)
               前の夫 和泉有人      (36)
             華僑の老人 呂重陣       (80)
            山あいの老女           (85)



○  高台の公園(早朝)

    ベンチから起き上がり、天地百郎がコートの襟を立てる。

    周囲に人の姿はなく、数本ある桜はまだ三分咲き。

    台本を小脇に挟み、町を見下ろす柵の前まで歩く。

    マンションの最上階に目をやるが、カーテンは閉じられたまま。

    あるベランダに中年男が姿を見せ、その背に抱きつく若い女性。

 天地百郎 「(つぶやくように)何をやってるんだ、俺は」

    そこへビルの谷間から現れた朝陽が顔に差し、大きなくしゃみ。

    添えた手にべたっと痰が飛び、それを傍らの木になすりつける。

    が、指に何かが刺さるような感覚を覚え、思わず舐めてしまう。

    再び痰を口にしたうえ、舌がちくちく痛み、繰り返し唾を吐く。

    と、小脇に挟んだ台本が足下に落ち、水たまりの飛沫が革靴へ。

    天を仰ぎそれを拾い上げようと屈んだ途端、腰がぎっくり鳴る。

 天地百郎 「うっ!」
    と、先ほどの手を腰へやる。

 天地百郎 「だから中腰の姿勢が大切なんだ」

    体を曲げたままベンチまで這いずっていく。

○  稽古場(前日)

    片隅のテーブルで向きあう天地百郎と若田部厳。

    演劇ベクトルの舞台稽古。どうやら中断模様。

    二人はひそひそ話し合っているつもりだが、明らかに全員がそれを
    意識している。   

    平静を装うスタッフと、思い思い身訓にいそしむ俳優たち。

    じっと睨んだあと若田部の頬に手をやり、軽く叩き席を立つ百郎。

 天地百郎 「まさか、こうなるとは思わなかったよ」

 若田部厳 「(つぶやくように)天地百郎さんの旗揚げ公演を高校のとき
       見て以来、いつかあんな芝居を作れたらと思っていた」

 天地百郎 「(振り向いて)俺は脚本を提供しただけで演出するのはきみ
       だ。しかしこれでは、タイトルを『的はずれ』に変えたほう
       がいい」
    と、手にした台本『的』の表紙を叩く。

 若田部厳 「………」

 天地百郎 「あとはすべて、きみに任せる」
    と、コートを手に取り出口へ向かう。

    だれも言葉をかけられない。

○  高台の公園

    ベンチに座る天地百郎が顔を上げると、二匹の犬を引き連れた婦人
    が目に入る。

    中年のくせにスタイルがよく、秋田犬とチワワというふざけた組み
    合わせ。

    秋田犬は鼻を鳴らして痰のこびりついた樹木に近づき、小便をひっ
    かける。

    そのあとチワワがさも当然のように同じ行動。

    ふと百郎は中年女性の視線に気づく。

    姿勢を変えようとして背に痛みが走り、思わず呻き声を上げる。

 天地百郎 「わおっ」

    それを感嘆の声と勘違いしたのか、中年女性が冷ややかに微笑む。

    犬の首を引き、ゆっくりと方向を転じる。

    ひと息ついた百郎は、犬の痕跡が残る木へ目をやり、急に尿意を覚
    える。

    あたりを見計らい、へっぴり腰で近づき、おもむろにチャックを下
    ろす。

    濃縮された、極太の放物線。

    だが、地面に落ちた液体がこちらへ向かって流れてくる。

 天地百郎 「やばっ」
    と、放尿する一物をつかんだまま徐々に後退していく。

○  真紀のマンション・寝室(1ヶ月前)

    コーヒー牛乳のストローを口にくわえたまま、ドア口へ後退する天
    地百郎。

    財前真紀がベッドでうつ伏せている。

 天地百郎 「………俺が、何かしたっていうのか」

 財前真紀 「(顔をそむけたまま)百郎がそういう人間だとはわかって
       る。二年前の約束もあるし、昔と同じ過ちを繰り返すつもり
       はないけど、なぜいつも、わざとそんなふりをするの。なぜ
       そんなに突き放すの。百郎もコーヒー牛乳も、私は大嫌い」

 天地百郎 「………」

    言葉をこらえ、部屋を出ていく。

○  石畳の坂

    公園を出たところの坂の分かれ道に立つ天地百郎。

    ここで路地を折れると急な階段となり、もう一方のカーブで下る車
    道とつながる。

    腰を押えつつ迷った表情の百郎。

    意を決するように路地へ進み、階段の手すりをもつ。

    と、マンションから財前真紀が出てきて、こちらへ向かって歩いて
    くる。

 天地百郎 「ど、どうして」
    と、腰をかばいながらあわててあとずさる。

    地蔵の陰に隠れ、様子を見る。

    茶のタイトスカートに白いラップコート、首に水玉のスカーフを巻
    く。

    手にブリーフケースを持ち、どう見ても会社へいく格好。

 天地百郎 「駅は反対側だし、車なら地下だろ。だいたい時間が早すぎ
       る」
    と、坂道を振り返って逃げる準備。

    視線を戻すと、まるでこちらを眺めやるように真紀が立ち止まって
    いる。

○  鹿児島市郊外の国道(2年前)

    青い空にくっきり浮かんだ桜島。

    たった今、見通しのよい直線道路のセンターライン上で、ワゴン車
    とハイヤーが正面衝突したばかり。

    血を流し、ぐったりとした運転手。

    助けを求めようと、双方の後部ドアから人が出てくる。

    と、事故車の横で呆然と見つめあう男女。

 財前真紀 「ひゃ、ひゃ、百郎なの?」

 天地百郎 「ま、ま、真紀かい?」

    ワゴン車から降りてきた数人があわただしく動く。

 財前真紀 「どうしてここに………」

 天地百郎 「きみこそここで………」

    徐々に往来に人だかりができる。

 財前真紀 「ネット局との打ち合わせで………。それより早く救急車を!」

 天地百郎 「もう呼んでる。………がんばってるようだね、テレビでよく姿
       を見る。………俺は児童劇団とドサ回りだが」
    と、ワゴン車の様子をちらっと見る。

    春の陽射しが降りそそぎ、南からそよ風が吹いてくる。

 財前真紀 「今はアナウンサーから編成部に移されてるわ。………10年ぶ
       りかしら」

 天地百郎 「ああ、あれ以来だ」

    国道の真ん中で立ち尽くす二人。

    遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。

○  石畳の坂

    パトカーのサイレンが聞こえてくる。

    百郎の背後を通り過ぎ、下り坂のカーブをまわって、真紀のすぐ後
    ろを走り抜けていく。

    体の向きを変えた真紀は、やがて駅のほうへ歩きはじめる。

 天地百郎 「俺もおまえもいったい………」

○  小劇場(13年前)

    上演中の『電光石火の軽業と百鬼夜行の妖気』

    その袖で、舞台へ出ていこうとする真紀のうなじにキスをする百
    郎。

    天地は演出家兼、軽業スペクタクル。財前はもう一方の主役、妖気
    スペクトラム。

 天地百郎 「もっと本気で飛びかかってこい」

    振り返り、うなずく財前真紀。

    と、ワイヤーに吊られてたちまち舞台上空へ跳びだす。

    剣を手にすぐさま後を追う百郎。

○  坂へ通じる舗道

    階段を降りてきた百郎は、道を挟んで玄関ホールを見つめ、真紀が
    歩いていった方向へ目をやる。

    そしてゆっくりマンションを見上げる。

    すぐ脇の陽だまりでこちらを窺う視線に気づく。

    置き物のように手足を畳んで座る、飛び三毛の猫。

 天地百郎 「やあ、久しぶりだな」
    と、足を踏み出し薄ら笑い。

    飛び三毛は首を傾げじっと見つめる。

    さらに数歩近づくと、体を浮かせ警戒の目。

 天地百郎 「なぜ怖がる」

    飛び三毛は生け垣の前まで歩き、こちらを振り向く。

 天地百郎 「バ~ン!」

    その口真似に、生け垣をくぐり抜けて行ってしまう。

 百郎の声 「ピンポ~ン」

○  真紀のマンション・玄関

    覗き穴に目をやり、外から様子を窺う天地百郎。

 天地百郎 「………いないことはわかってるんだ」
    と、合い鍵を使ってそっとドアを開ける。

 天地百郎 「いつか忠告したよな。中腰の姿勢を忘れるなって」

    薄暗い足下にはパンプスとサンダルのみ。

    里山の風景画、貝殻の置き物、わずかに開いた靴箱へと焦点を合わ
    せる。

    その扉に手を触れようとしたとき、女の足が飛び出してくる。

    ぎょっとする百郎。

    だがそれは、ぐにゃリと折れ曲がったストッキングブーツ。

 天地百郎 「生々しいやつ」
    とブーツを手に持ち、鼻をひくひくさせる。

    そうしながらリビングのほうを睨みつける。

○  同・リビング(1年前)

    ショーツ姿の真紀がストレッチマシンで運動中。

    寝室から出てきた百郎はそれをちらっと見てキッチンへ。

    ミネラルウォーターを手にして戻り、開脚中の彼女の前に立つ。

 財前真紀 「いやなやつ」
    と、彼の下半身にしなだれかかる。

    汗に濡れた首筋をそっとなでる百郎。

 天地百郎 「理解しあうのにやはり時間は必要だった」
    と、しゃがみこんで額を合わせる。

 財前真紀 「(目を見て)不在や空白も時間なの?」

 天地百郎 「空白といったって、きみはテレビ局に入ってアナウンサーと
       して活躍し、番組を売り込むプロデューサーまがいの仕事ま
       でこなし、青年実業家とやらとの結婚生活も経験した。その
       間俺は、売れない劇作家のままゴーストライターをやった
       り、遊園地のアトラクションを手伝ったり、児童劇団と一緒
       に全国を巡回してまわった。いろいろあったのさ」

 財前真紀 「まわり道」
    と、彼の目を見る。

 天地百郎 「まだまだ、まわる」
    と彼女を押し倒し、一緒にエクササイズ。

○  同・寝室

    コートを着たままダブルベッドに仰向けとなった天地百郎。

    床に据え置かれたベージュのストッキングブーツ。

 天地百郎 「わからないのか………。だめだな。………本当にわからないの
       か」
    と上半身を起こし、正面に向かい“的”と指で書く。

○  同・キッチン

    濡れた髪を拭き、タオルを腰に巻いた百郎がキッチンを物色。

    やがてフライパンをオリーブ油で熱し、スライスした野菜とベーコ
    ンを炒める。

    鼻歌まじりにときどき天窓から空を眺める。

    トーストしたイギリスパンにマスタードをぬり、チーズと炒めた野
    菜、ベーコンを挟み、一口かじったあと残りを皿に盛りつける。

○  同・リビング

    ソファに座った百郎は、サンドイッチとブラックコーヒーを口にし
    ながら部屋の様子を眺めまわす。

    ストレッチマシンや間接照明やシンプルな調度品。80インチの薄
    型モニターに真紀が担当した番組コレクション。

 天地百郎 「変わらないのは………」
    と思い出しように腰を上げ、ソファのクッションを引き剥がす。

    そこには、ぺしゃんことなったスメナリの食玩が貼りついたまま。

 天地百郎 「スメナリくん、おまえもか」
    と満足そうに微笑み、クッションを戻して腰かける。

    食べ残した皿を押しやり、テーブルに足を乗せ何やら考えるふう。

 天地百郎 「中腰の姿勢を忘れるなよ。気持ちの問題なんだ」

○  並木道

    気持ちよさそうにカブリオレを運転する天地百郎。

    ルームミラーにぶらさがるポプリの実。

    朝の服装のままだが、風と陽射しに春の暖かさを感じる。

○  ガソリンスタンド

    給油を受けているカブリオレ。

    その後ろにキャンピングカーが停まり、従業員が走り寄る。

○  同・トイレ

    手を洗いながら百郎は、片隅に置かれたポプリに目がいく。

    その中からこっそり実を一つだけ頂戴し、ポケットへ。

    その背後に、老人が怪訝な面持ちで立っている。

 天地百郎 「あ、いいサービスですね」
    と、手を鼻にやり陶然とした表情。

    そして出口に向かいながらちらっと振り返る。

    老人は、同じようにポプリの実をつまみ、口の中へ放り込む。

 天地百郎 「あやや」

    だが、入れ歯を剥きだすように老人は満面の笑み。

 天地百郎 「グッド」
    と、親指を差しだし出ていく。

○  花火会場(27年前・夜)

    夜店の傍らに立つ天地百郎の父親。

    ときおり花火を見上げ、手持ちぶさたな様子で煙草を吹かす。

    そこへ浴衣を着た二人連れの女性が通りかかる。

 浴衣の女 「パパ、パパ! パパじゃない」

 天地の父 「………おう、やけに清純そうな娘なのでだれかと思った」

 浴衣の女 「(微笑んで)パパったら」

    大人たちに交じって8歳ぐらいの子供が不思議そうに見上げてい
    る。

 子供の百郎「………パパ」
    と、溶けそうなアイスキャンディを手にお釣りを差しだす。

    途端に気まずそうに黙りこくる大人たち。

 天地の父 「じゃ、行こうか。釣りは持ってろ」
    と、百郎の頭を叩いて歩きだす。

 子供の百郎「(駆け寄りながら)パパのこと、あの女の人たちもパパと呼
       んでたよ」

 天地の父 「………」

 子供の百郎「ぼくに、あんなきれいなお姉さんがいたんだ」

    しかし父親は、黙って百郎の頭を小突くだけ。

 子供の百郎「大丈夫だよ、パパ! クラブ活動は、みんなやってることだ
       から」

    父親が急に立ち止まり、百郎と目を合わせるようにしゃがみこむ。

 天地の父 「ここにママがいないのは、なぜだか知ってるよな」

 子供の百郎「ええと、コミュニティクラブのコンシンカイ(懇親会)だっ
       け」

 天地の父 「クラブにいると、いろんな人間と知り合いになるんだ」

○  首都高

    郊外に向けてカブリオレを走らせる天地百郎。

    じっと前方を見つめたまま。

○  広告代理店・会議室(半年前)

    高層階の窓から臨海副都心が一望できる。

    年配の部長らしき男と一対一で向かい合う天地百郎。

    男が、おもむろに身を乗りだして語りかける。

 代理店の男「でもね、今さらそういう相談をされても、もう後戻りできな
       いことぐらいきみもわかるだろ。お互い了解したうえで契約
       を交わし、すでに私の手を離れ、下請けのイベント会社が実
       質的な運営とプロデュースを行っている。口添えが必要なら
       力になれんでもないが、身を引くなんてことはきみ自身や私
       の将来に泥をぬるんだぞ。莫大な損害賠償という事態にさえ
       発展しかねない。あの原作をフィーチャーしたこと自体、一
       種の冒険であり、わざわざきみの要望を入れ遊園地のアトラ
       クションにアレンジするだけじゃなく、全国のリゾートホテ
       ルでちゃんと芝居を上演できるようにしたんだ。それできみ
       は充分な報酬を受け取り、自分自身の演劇活動に打ち込むこ
       ともできる。少々の制約や不便があるのは当たり前だと思う
       がね」

 天地百郎 「少々ですか………」

 代理店の男「どんなに言われようが、それを少々だと思って立ち向かわな
       いでどうする」

 天地百郎 「………立ち向かう。………立ち向かう、か」
    と、立ち上がって虚空に手を伸ばしてみる。

 代理店の男「そう、その調子だ」

○  リゾートホテル(5ヶ月前)

    吹き抜けとなったロビー。

    照明が落とされ、おどろおどろしい音楽や回転するミラーボールと
    ともに、中央に鎮座する巨大カボチャの張りぼてに灯りがともる。

    と、中空にワイヤーに吊るされた妖怪が現れ、ロビーを上下。

    その間を妖気スペクトラムが舞うように揺曳する。

    やがてカボチャが割れ、またたくまに女体の生人形へと膨張し、天
    井から降りてきた軽業スペクタクルがその肩にまたがる。

    火を吹く妖気。

    飛翔する軽業。

    そして妖怪どもに足蹴りを食らわし、妖気の背後に抱きつく。

    空中ブランコのように宙をさまよったあと、最上階へと消える軽業
    と妖気。

    女体の生人形だけがロビーを睥睨している。

○  遊園地・駐車場

    いちばん端のスペースに停まるカブリオレ。

    ハンドルに腕を乗せたまま遊園地の全景を見渡す天地百郎。

    ため息をついて車を降り、通用門へ向かってゆっくり歩きだす。

 百郎の声 「もしもし。大丈夫か………」

○  大学病院・手術室

    手術台に寝転がった半裸の看護婦が、携帯電話をドクターの耳に差
    し出している。

    天地の大学時代の演劇仲間、真中信行。

    その手が看護婦の胸部に添う。

 真中信行 「天地百郎か。そろそろ電話があるころだと思った」

○  遊園地・観覧車の中

    携帯電話を握りしめ、観覧車の中に立つ百郎。

    遊園地からさらに遠くを見やる。

 天地百郎 「ま、いろいろ耳に入ってるんだろ。たまにはそっちから連絡
       をもらいたいもんだ」

○  大学病院・手術室

    看護婦からケータイを受け取り、腹部から下半身をなでまわす。

 真中信行 「そうするとお得意の肩透かしを食らうだけだからな。………こ
       の前、遊園地へ行ったよ。見世物小屋にも入った。息子は大
       喜びだったが、あれにあのタイトルを名づけるとは、大学で
       一緒に活動したものとして複雑な気持ちだった。芝居のほう
       は見てないが、真紀がなんと言っているか訊きたいね。突き
       抜けたと思ったら目的を見失う羽目になるとは、厄介なもん
       だ。お互いさまだが、こうやって時を刻んでいくとしびれて
       くるね」

 百郎の声 「会って話したいことがある。どうだ、これから」

 真中信行 「構わないが、俺の専門は皮膚科だぜ」
    と、看護婦の尻にある吹出物をつまむ。

 百郎の声 「しこりも皮膚病だろ」

○  遊園地・観覧車の中

    胸にケータイをしまい、乗降口が近づくのを待つ百郎。

 天地百郎 「俺は、中腰のまま走れるんだ」

    見世物小屋のほうへ目をやり、全身で的を射る真似。

○  テレビ局・喫茶室

    ガラス張りの窓に映るどんよりとした空。

    上司の話を気まずそうに聞く財前真紀。

 上司の男 「いいかい、決してアナウンサー室へ戻れとも、レポーター役
       をやってくれとも頼んでるわけじゃない。きみの意欲や実績
       は十分に評価している。だがこのままだと、人気を求めない
       ドキュメンタリー番組であれ、次の改編期では打ち切られる
       可能性が高い。それはプロデューサーとしていちばんきみが
       悔しいことだろうし、何か新機軸が必要なこともわかってく
       れてると思う」

 財前真紀 「私は、自分が客寄せパンダになることを嫌がってるわけじゃ
       ありません。でも企画そのもので、もっと新生面を出せると
       思うんです」

 上司の男 「情報番組に取って代わられてもいいのかい?」

    そのとき、何かが窓の外を横切っていく。

 財前真紀 「あっ」

 上司の男 「どうした」

 財前真紀 「たった今、何かが窓の外を横切って………」

 上司の男 「(ちらっと振り返り)鳥だろ。で、どう思うんだ?」

    そのとき、鳥らしきものが窓の外を落下していく。

 財前真紀 「あっ」

 上司の男 「なに」

 財前真紀 「たった今、鳥らしきものが窓の外を落下して………」

 上司の男 「(憮然として振り返り)ほう、空が十字を切ったわけだ」

    そのときテーブルの携帯電話が鳴り、あわてて手にする真紀。

    はずみでカップが倒れ、上司の股間にコーヒーがこぼれる。

 財前真紀 「あ、すいません」

 上司の男 「うわっ」

 財前真紀 「(携帯に)もしもし………」

 電話の声 「この電話は現在使われておりません………」

 財前真紀 「はあっ?」
    と、携帯電話を見つめる。

 上司の男 「はあ、じゃないだろ」

 財前真紀 「あ、すいません」
    と、ハンカチを取り出し上司の股間を拭おうとする。

 上司の男 「財前くん」

 財前真紀 「はい」

 上司の男 「きみ、どんな悩み事を抱えてるの?」

○  同・廊下

    長い廊下を、書類を腕に歩いてくる財前真紀。

    途中、角から出てきたスタッフに手を伸ばす。

 財前真紀 「今朝のデータ、戻しておいてね」

    さらに歩きつづけ、同僚とすれ違い軽く会釈。

    編成の部屋に入ろうとしたとき、名を呼ぶ声。

 カートの男「財前さん」

    カートを引くのは、配達整理係のアルバイト。

 財前真紀 「(カートを見て)私宛ての荷物?」

 カートの男「ええ。またデスクを占領することになります」

 財前真紀 「とっくにアナウンサー引退してるんだから勘弁してほしい
       わ」

 カートの男「視聴者は、いつか財前さんが復帰してくれると信じていま
       す。ぼくもその一人ですが………」

 財前真紀 「それ、アンタッチャブルよ」

 カートの男「でもこれ、問題のきっかけとなったあの団体からでは?」
    と、カートから分厚い封筒を持ち上げる。

 財前真紀 「えっ」
    と、体をよじらせて覗き込む。

 カートの男「あの問題って、なんだか陰に隠れちゃった感じがしますけど
       ね」

    思わず顔を上げる真紀。

    恐縮した体でうつむく男。

    複雑に微笑む真紀。

○  同・編成部

    ため息をついて自分の席へやってくる財前真紀。

    腰を落とすやいなやデスクの電話が鳴る。

 財前真紀 「はい、編成です」

 電話の声 「………番号をお確かめになって、もう一度おかけなおしくださ
       い」

 財前真紀 「はあっ」
    と、怪訝な面持ちで受話器を見つめる。

    すぐさま受付へダイアルを戻す。

 財前真紀 「今のこの電話、どこからかかってきたかわかる?」

 受付の声 「………確か、キユウさんと名乗ってましたが」

 財前真紀 「キユウ? あ、ありがとう」

    デスクには封筒から出された冊子と一枚の便箋。

    表紙には“亜救の会 活動報告書”とある。

    ふと気づいたように、受話器を下ろす。

○  トイレ・個室の中

    便器に座ったまま、じっと考え込む財前真紀。

○  同・鏡の前

    女性局員が二人、化粧直しをしながら雑談する。

 局員A  「知ってる? 10人のうち8人はストーカーに狙われた経験
       があるのよ」

 局員B  「そんなに」

 局員A  「そのうち3人は現在もその影におびえてるんだけど、この数
       字、昔の痴話げんかの統計とほぼ同じらしいわ」

 局員B  「何それ」

 局員A  「ニュースの進歩、っていうこと」

 局員B  「で、私の相談は?」

 局員A  「こっちは、いま男を追い詰めてる最中なの」

 局員B  「げげッ」

    大笑いする二人。

○  同・個室の中

    便器に座ったまま、女性たちの声を聞き入る財前真紀。

○  レストラン(3年前)

    都心の夜景を見渡す高級レストラン。

    別れた夫、和泉有人と会食する財前真紀。

 和泉有人 「離婚しても、こういう関係っていいよね」

    有人がウェイターを呼び、ワインを追加しようとする。

    席を立ち、帰ろうとする真紀。

    ウェイターへ穏やかに微笑み、その後を追う有人。

○  通路(同)

    真紀の腕をつかむ有人。それを振り払う真紀。

○  エレベーター(同)

    小走りで乗り込む真紀。その後に続く有人。

    無表情で隣り合う二人。同乗する中年夫婦。

○  ロビー(同)

    エレベーターから出てくる真紀。

    人影を見計らい、再びその腕をつかむ有人。

 和泉有人 「戻れよ」

 財前真紀 「もう、やめて」
    と、回転ドアを出ていく。

    見送る有人。

○  亜救の会・事務所(5年前)

    横浜の中華街を見下ろすビルの一室。

    ソファに座る財前真紀に、窓辺に立った華僑の老人が語りかける。

 呂重陣  「むろん取材のせいではなく、不幸な事件だったというほかな
       い。私たちもまさか、彼があの気功集団に属するとは思いも
       しなかった」

 財前真紀 「亡くなったのは、本当に彼だったんですか?」

 呂重陣  「私たちにはもう確かめようがない」

 財前真紀 「でも、だれもその亡き骸を見ていません」

 呂重陣  「当局がそう言っておる。彼がいなくなったのは事実だ」

 財前真紀 「………」

○  真紀のマンション・寝室(今朝)

    明け方、電話がしつこく鳴る。

    目をこすり、ベッド脇の受話器に手を伸ばす財前真紀。

 財前真紀 「もしもし」

 受話器  「………」

 財前真紀 「もしもし」

 受話器  「………(微かな息遣い)」

 財前真紀 「百郎?」

 受話器  「………」

    電話を置き、起き上がる真紀。

    棚に置いたハンドバッグの中をあさる。

    財布の奥から出てくる『的』のチケット。

○  テレビ局・トイレ

    個室を出て手を洗う財前真紀。

○  同・プレビュー室

    モニターを見つめる財前真紀。

    山あいの幹線道路で画面に映り込む、ガードレール脇に佇む老女。

    景色を追っていた画面がその老女にズームアップ。

    ナレーション原稿を推敲する真紀、時計をちらっと確かめる。

○  モニター画面

    いつまでも続く車の往来のあと、道をゆっくり渡りはじめる老女。

○  リゾートホテル(6ヶ月前)

    吹き抜けのロビーで、百郎と真紀がソファに座って天井を見上げ
    る。

    何かしら負い目を隠すような口ぶりで話す百郎。

 天地百郎 「(手を掲げ)あのあたりできみ、いや妖気スペクトラムが宙
       を舞い、火を吹く。魑魅魍魎どもがまわりを揺曳してるん
       だ。そこへ、ここで割れたカボチャから女体の生人形がまた
       たくまに膨張していく。その肩にまたがった軽業スペクタク
       ルが妖気を追い、邪鬼を蹴散らしスペクトラムと一体化す
       る。………この空間が、あの舞台として再現されるんだ。思い
       もしなかった成り行きだけど、あの芝居にとって一つの究極
       といえるかもしれない」

    真紀はどこか上の空のような面持ち。

    ロビーの片隅に中国語を話すツアーの一団。

 天地百郎 「おい、聞いてる?」

 財前真紀 「(百郎のあごに手をやり)私たち、一体となるんだろう」

    見つめ返す百郎。

○  首都高速(夕暮れ)

    タクシーで都心へ向かう財前真紀。

    西の空をじっと眺める。

○  シアターホール・表(夜)

    酔っ払った天地百郎と真中信行が歩いてきて、ホールの正面に立
    つ。

    入り口に貼られた『的』のポスター。

    すでに開演中で、内部は静まり返った様子。

    ポスターを凝視し、コートから丸めた台本を取り出す百郎。

 真中信行 「どうする? どん詰まりまできたような気がしないか」

 天地百郎 「(ポスターに見入ったまま)まだ宵の口さ」

    ホールの奥で拍手が鳴り、地響きのような音楽が聞こえてくる。

    思わずそちらへ目をやる二人。

 真中信行 「………さらに底が抜けるというわけか」

 天地百郎 「(ちらっと振り返り)おまえは、中腰で走ったことがないだ
       ろ」

 真中信行 「中腰?」

○  同・ロビー

    扉が開き、客が徐々に出てくる。

○  同・入り口

 天地百郎 「(真中の肩をたたき)行こう」
    と、連れ立って中へ入ろうとする。

 真中信行 「………おいおい」
    と、遅れてついていく。

○  同・ロビー

    溢れ出てくる客のさまざまな顔、顔、顔。

    その流れに揉まれながら横切っていく二人。

    と、ある扉から財前真紀が出てくる。

    お互いの存在にどちらも気づかない。

    真紀はカウンターに寄り、携帯電話をチェック。

    百郎は、扉の奥の観客席をじっと見つめている。

    バーカウンターから、真中が二人分のビールを持ってくる。

    だれもいない観客席を並んで見つめる男二人。

    真紀は外の様子を気にしている。

○  同・表(夜)

    一人、街灯の下まで闊歩してくる財前真紀。

    ふと、道の向こうへ渡りつく浮浪者が目に入る。

    そのときだれかに呼ばれた気がし、振り向く真紀。

    しかし人のまばらなホールが佇むだけ。

    背後で衝撃音がし、再び向きを変える真紀。

    道ばたに倒れている浮浪者。

    走り去っていくワゴン車。





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