消えた風の記憶 「短編小説」
彼はいつもそこにいた。
朝露がまだ残る田んぼの端っこ、木々の陰になる場所に、細くてしなやかな体の白い猫が座っていた。彼は何をしているのか、あるいは何を考えているのか、誰にもわからなかった。けれども、村人たちは彼を見かけると、いつもその存在を確認するかのように安堵していた。彼の存在が、この静かな田舎の日常の一部だったからだ。
その猫は、まるでこの風景の守り手であるかのように、毎日同じ場所に現れた。季節が移り変わり、稲が緑から金色へと変わるたびに、猫は同じ場所で、同じ姿勢でじっと座っていた。彼の目は常に遠くの空か、あるいは風に揺れる稲穂の先に向けられていた。何かを待っているのか、誰かを探しているのか、それは誰にもわからなかった。ただ、その沈黙の中に、かつて存在したかもしれない「何か」の痕跡が感じられた。
村の老人たちは、その猫について話すことがあった。「あれは、昔ここに住んでいた老夫婦の猫じゃないかね」と、誰かが言うと、別の者が「そうさ、あの家がなくなってからも、ずっとここに居座ってる」と答える。猫と老夫婦、そしてこの風景には、何かしらの因縁があるのかもしれないと、村人たちは思っていた。しかし、真相を知る者はもう誰もいない。
時折、猫は立ち上がり、田んぼの向こうの林の方へと歩いて行った。そして、しばらくしてまた戻ってくる。その行動は一貫していたが、目的も理由もわからなかった。だが、その姿を見ると、まるで遠くにいる誰かを迎えに行ったかのような、そんな切なさが漂っていた。
そしてある日、猫は忽然と姿を消した。誰もがその事実に気づき、村の空気は少し重くなった。いつもそこにあったものが消えたことで、村の風景はどこか不完全になった。しかし、村人たちは日常を続けた。稲が刈り取られ、冬が訪れ、また春がやってくる。
猫は戻らなかった。しかし、彼の存在は風景の中に染み付いていた。稲穂が風に揺れるとき、その音の中に猫の足音が聞こえる気がした。林の陰には、今でも彼の白い姿がひっそりと佇んでいるかのように見えることがある。
もう誰もその話をしなくなったが、村のどこかで、ふと彼のことを思い出すときがある。そして、その瞬間、彼のかつていた場所には、消えることのない何かが存在しているように感じられるのだ。