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新卒で入った会社を3ヶ月で辞めてから、1年とすこしが経った。
新卒当時、退職を考えている、あるいはすでに退職した同期たちを、夜な夜なTwitterやtiktok、noteで見ていた。そこで綴られていた弱音、あるいは怒りにも似た声明は、今にも辞めそうであった私の背中を押した。
しかしあの時あれだけ力強く私の背中を押してくれた仲間たちは、気づけば皆消息を絶った。みんなどこに行ったか。なんだかんだ仕事に耐えているのか。それとも第二新卒として再就職か。世界一周にでも行ってシチリアのあたりを満喫中か。あるいは。
私は新卒で入った会社を3ヶ月で辞めて、1年以上フリーターとして生き延びている。これは、挫折し、再就職も自殺もしていない、一般的な弱い若者である私の、新卒当時〜現在地点の振り返りです。
入社〜起承転結でいう「転」
23卒として私立大学を卒業し、いわゆるミドルベンチャーに就職。学生時代から長期インターンでメディア/webサイト運営に携わっていたこともあり、マーケティング事業部に配属された。
同事業部に新卒社員は3名ほどしかおらず、私が所属したチームは4人で私以外みな30代の中堅社員だった。
全く同じ業務を行う社員はおらず、チームリーダーかつゼネラルマネージャーが直属の上司で、彼は他の大量の仕事をこなしながら私の面倒を見てくださった。
私に割り振られた仕事は大きく分けて二つ、イベント集客とwebサイト改修のディレクションだった。
企画やデータ管理など個人で行う業務もあったものの、大方は関係各所との調整業務だった。学生時代から人間関係をうまくやることから逃げ続けてきたわたしは、このコミュニケーションに日々疲れを感じ、疲弊していく。
個人的事件①
そんな中でのある日、他県でのイベント開催に先立ち、当該地域の支社の営業職に連絡を取る必要があった。
直属の上司は席を外している中、生き急ぎがちなわたしはその支社の先輩をメンションする。
@⚪︎⚪︎さん
×日のイベントですが、集客状況が芳しくありません。
現地営業の方にも協力をお願いしたい次第です。etc
これに対し⚪︎⚪︎さんはその“芳しくない”という集客状況について、支社に求められる数や根拠、などについて続々と質問をわたしに投げかける。わたしは焦りに焦りを重ね、PC画面に額をのめりこませるほどの前傾姿勢で、空を切るような返信を繰り返し、手先を震わし、会議から帰ってきた上司に肩を叩かれ、、、、それからどうなったのかは記憶がない。
いやある。
上司がその先輩とオンライン会議の形で持って共有の場を設け、丸く収めてくれた。
今思えば私はその会議について上司から連絡も報告もなかったが、自席から見えるガラスの会議室にて、上司が頑張っている姿は覚えている。彼なりに気を遣ってくれていたのだと思う。そんなことばっかりだった。
この事件から少しの間イベント集客からは外された。いや、外してもらった。上司は優しかった。
個人的事件②
2週ほど経って新しいイベント関連の仕事が任された。それはさらに2週先に控えている複数のイベントに対して、駅広告で集客を促進するというものだった。駅の選定から広告会社への連絡、掲出ポスターのデザイン依頼や印刷、送付などを急ピッチで進めた。
コミュニケーションが苦手など言ってられない。やるしかない諸々の事実たちの渦中にいた。わたしは隣の席のチームメンバーから声をかけられても気づけないくらいには追い詰められていた。
この仕事は結果的にやりきったものの、その夜、上司と私しかいないような閑散としたオフィスにて、わたしは訳もわからずおんおん泣き出した。別に泣きたい訳じゃなかった。そんな私を上司は会議室に連れて行って、話を聞いてくれると共に、ちょうどフリースペースで開催されていたイベントに連れて行ってくれた。とにかく、上司は優しい人だった。
※上記ふたつの個人的事件の時系列は曖昧。そもそもこの頃から2023年が終わる頃までの記憶は、ところどころ抜け落ち、混濁しているように思う。
転〜退職
それからすぐだろうか、平日の朝会社に行く勇気が湧いて来ず、休みを取る勇気だけが湧いてきた。休む以上、病院へと行かなくてはいけなかったので心療内科へと向かった。上手く生きれていない理由を、誰かに与えて欲しかったんだと思う。心療内科では特にこれといった診断はもらえず、漢方が処方された。
この結果に満足できなかったわたしはなんとその足で精神科へと向かった。こちらでは適応障害と診断され、怪しげな薬を3種類もらった。
ついに第三者に「上手く生きれていない、上手く仕事をこなせない理由」を与えてもらったわたしはどこか安心した。
と同時に、「鬱病ではないんだな」と思っている自分がいた。また、衝撃の病院はしごをしてなんとか獲得した「適応障害」であり、「多分わたしは適応障害でさえない」。“病気のせいにしているだけの自分”を強く認識する理由になった。当時の心情の詳細は下記。
診断結果を上司に伝え、わたしはしばらくの間イベント集客の仕事から離れることになった。なんとか薬を服用しながら他の仕事を続け、1ヶ月くらい経った頃、新しい大きめの仕事を任された。この頃の記憶は曖昧だが、webディレクターとしての仕事だったと思う。デジタルでの機能追加のディレクションで、完成系だけ認識しており、どうすれば実現できるのか上司にも私にも分からない内容だった。
兼ねてより私は、ディレクションという仕事の存在意義ないし、私の存在意義について腑に落ちておらず、関係者をつなぐだけの仕事をしていた。
しかしそれで上手くいく訳もなく、なんだか関係者みんなが無理そうな雰囲気を醸し出していた。その雰囲気に呑まれ、わたしもなんだか全部が無理な気がしてきていた。そして私は会社を辞めるに至る。
ある日、朝いつも通り起きても会社に行けなかった。どうしても行けない、と思った。母親に電話までした。高校時代からろくに親とは話さない薄情な息子である私が、だ。電話越しに大泣きした。そしてそのまま上司に電話をし、退職へと手続きが進んでいった。
退職の手続きは恐ろしいほど素早く進んだ。会社としても新卒の早期離職には慣れているようだった。というのも、私がいた会社では、1年でその年の新卒の半数以上が辞める。
最後の電話で上司は「ファーストキャリアがうまくいかなくても人生どうにかなるから、」というようなことを私に言っていた。
退職〜迷走の果て
この頃の体調および心情として、紐があったらそれで首を括ることを考えてしまったり(私にとって自殺といえばもっぱら首吊りだった)、息がしづらかったり、動悸がしたりとそれっぽいことはこの身に起きていた。だがこれらは学生の頃にもあったことだったから、仕事が原因ではない、そういう体質というか、誰にでも特に新卒なんかにはよく起きる現象だと思った。
また、私は処方された“適応障害の症状に効く薬”を飲んでいた。その上で私には上記のような症状(?)が出ている。つまり、私の”症状(?)”なソレらは、適応障害が原因のものではないと思っていた。薬で治らない体や心のソレらは、ただの感覚でしかなく、症状などといった大そうなものじゃないと思っていた、ということだ。
だから私はただただ弱い腑抜けた気合いの足りない、嫌になって辞めるだけの根性のない人間だ、そういった認定を自分に下した。
この認定は私の過去も根拠としている。高校では陸上を1年で辞めたし、英会話も長くつづ叶った。大学でも茶道部およびギターサークルに一瞬だけ入ったし、本気でやるつもりだった学生団体もさあこれからという時期に逃げ出した。何もかもお前は中途半端だな、といつか父が言っていたことを覚えている。
そうして会社を辞めてからというもの、気分は少しだけ良くなった。同様にやめてしまった新卒をSNSでみて勇気づけられたりした。
一方で、鬱と診断され辞めた人を見て、自分の適応障害という診断名をよりしょうもなく感じた。なんと言ったって、適応障害というのも、なんかしたの病名をつけて欲しくて病院を梯子してまで診断してもらったものだ。情けない、情けなすぎる、と思っていた。
退職して1ヶ月と経たないうちに、とりあえず転職サービスに何個か登録し、何個か応募した。大体30社くらい書類を出し、3社ほど面接を受けさせてもらい、全て落ちた。就職は一旦諦め、バイトを開始。
バイト①は渋谷のシーシャ屋さん。研修期間が1ヶ月ほど設けられており、その期間に一定以上のレベルに達することが求められたが、その水準に届かなかった。接客がもっぱらダメだった。最終日には焦ってシーシャのでかい瓶を割り、次のバイトへ。
バイト②は道玄坂のホテル。学生時代に同じようなバイトをやっていたため、こちらを選択。基本夜勤週4で現在まで続いている。
バイトをしながら薬の服用を続けていた私だったが、個人的に苦手な冬が来て、勝手に薬の摂取量を増やしていた。効いている感じがしなかったんだからしょうがなかった。その頃の友人には大変に心配され、病院を変えることをおすすめされたり、服用量の管理をしてもらったりした。実際、睡眠系の薬を飲みすぎて記憶がなくなったり、気づいたら眠っていたりといった常人にはあまり見られない行動を見せていたため、心配も心配だったと思う。
結果的に友人や家族の支えのおかげで薬の服用は2024年の頭でやめることができた。「病人」として周りから扱われることは私の回復にポジティブに働いた。たとえそれが適応障害であったとしても、そんな大層なものでなかったとしても、私は普通には生きれない弱い人間であるという自己認識を受け入れることができた。ありのままの自分を認めることによって、だいぶ生きやすくなった。
支えてくれた皆さん、本当にありがとう。理想に縛られない生き方を、その始め方を一緒に生きることで教えてくれた。
そして退職から1年が経とうとしていた今年の4月ごろから、再び就職活動を開始。IT業界を中心に2ヶ月で150社ほど応募し、1社最終まで進むも大半がお祈り。「本当にやりたいことか、考えてみて。」との言葉をいただいた。
これからのこと
四国に引越しをすることにした。たいそうな理由があるわけではない。上記の②バイトも1年つづいているが、一生ホテルで働きたいわけではない。再就職の兆しもないし、何よりやりたいと思える仕事がない。強いて言えば、喫茶店とか開きたい。あとは芸術の近くにいたい、詩だけはずっと書いてきたものだ、大切にしたい。
それに東京にいる意味がない。ひどく余談だがスパゲティコードラブという映画があった。東京という街で暮らす、というか生きる若者たちを描いた映画だ。数年前に見た映画だが最近になってよく思い出す。好きな映画だった。私が東京に求めていたものはなんだったろうか。大学進学を機に上京してきて、いろんな人に出会い、いろんなことを経験し、今に至る。ちゃんと振り返ってまたまとめたい。
きっと人は私の生き方を見て「そんな生き方、心配でしょうがない。」、「大学まで出してもらって、親に申し訳ないと思わないのか。」、とか思うのだと思う。実際、自分の中の一部分はそういったことを声高に叫んでいる。
しかし私はまだ24歳だ。「30歳まではフラフラして、なんかやりたいことないかな〜って生活してた」こんな人が意外といたりもする。今のうちにもう少し、冒険をしてみることにする。多くの人が歩む道は、私には少し険しすぎるから、その道へ戻ることはもう諦めた。
お父さん、お母さん、こんな息子で申し訳ない。
【おわりに(反省)】
私にとってこの23年はそれなりに長く、それなりにいろんな経験をしてきたつもりなのだけど、それは社会に適合する形への進化を意味する時間ではなかった。何度も自分を見つめ直し、自分の自分たる部分を探し続けた結果がこれだ。
人は多分、社会に出るまでの時間を経て、それなりに社会に適合する形を獲得していく。そしてそれが自分らしさという形で、本人にも受け入れられる。ありのままとまではいかずとも、社会に馴染んでいく。
わたしはありのままの自分の形が、社会に適合できる形とはきっと異なっていたのだろう。だからこんなにも馴染めなかったのだろう。
元来周りを気にする性格で、さらにSNSに囲まれ育った私は非常に生きづらい。平均台の上を歩くように自分の中で反駁が繰り返される。たとえば、私の中でまず右足が「私は生きづらい」と言う。すると今度は左足が「『生きづらい』なんて自分は悲劇のヒロインか?被害者づらすんな。」と言う。今度は右足が「悲劇のヒロインなんかじゃない。できるだけ中立に物事を考えて発言しようとしてるじゃないか」「いや、滲み出る過剰な自己愛、ナルシズムが気持ち悪い」、、。
こうした自問自答には終わりがない。平均台は上り坂になっていて、私は引き返すこともできず、地面が見えなくなってしまったあたりで「「いっそ飛び降りたほうが楽なんじゃないか」」みたいなことを両足が言い出す。
だから私は適度に周りを気にしないことにする。こういうnoteも書いて公開する。何ひとつ自信をもって言えることはないが、なんとなく生きていきたいと思っている。
幸せになるために生きる、今の幸せを精一杯感じる、それが今日まで私に関わってくれた人への一番な恩返しであると信じる。