社会科と私 ニガテ克服への道①

「社会科」が苦手だった。

正確にいうと、今も克服しようとしているが、和解には至っていない。

社会科と私の関係は今のところ3つの時代に分けられる。

着々とニガテ形成期

すっかり距離を置き疎遠期

このままではまずいと気づくも関係修復困難期


なぜ私が社会科がニガテなのかを振り返りながら、逆に学びのヒントが得られないか考えてみたい。


まずは着々とニガテ形成期から。

地理は、小学生のときに都道府県をきちんと覚えなかったことが最初のつまずきだった。基礎が曖昧なところに山脈だの工業地帯だの言われても、その背景に理解が及ばない。中学校の社会科を受けたきり、高校では地理を選択しなかった。

歴史は、どうも興味が持てず、縄文、弥生、平安...辺りで覚えるべき内容が増えてきて戦線離脱していった。はなからやる気がない訳ではなく、新年度のやる気が平安時代を習う頃には尽きてしまうのだ。

小学生の私も中学生の私も、春にはやる気があった。地理だって、最初に習う東北地方は覚えたが、関東地方で脱落していった。

今思い返すと、春にやる気はあっても、取り組み内容に興味がわかないために燃料補給がなされず、夏頃にはやる気が自然消滅していたようた。

そして高校受験で志望校に合格するため、テスト対策として地理や歴史のキーワードを頭に詰め込んだ後、高校生になる頃には、社会科に対するやる気は消息をたった。


そう、ここから私の社会科との、すっかり距離を置き疎遠期が始まる。


高校生になり、一年生の春。新たな刺客「世界史」に出会うも歴史に開眼することはなかった。記憶にあるのはアルカイックスマイルと世界史の先生の眠気を誘う授業くらいである。二年になり、日本史を受講したのは、たしか地理よりはましという消去法による。この頃にはもはやニガテを通り越してキライに到達していた。

理系に進んだ私は現代社会なる科目のおかげで、今度の受験勉強では社会科に苦しむことなく望む方向へと進学できた。

現代社会は、唯一社会科の中で苦痛がなかった。歴史や地理より興味があったのだろう。

選択できなかったけど、哲学に関する科目も興味があった。ソフィーの世界を読んで面白かったからだ。そういえば私には歴史や地理を面白いと感じた原体験が無い。

我が家には大河を観る習慣もなければ、歴史に関する会話が家庭内で盛り上がることもなかった。おばあちゃんと一緒に水戸黄門や遠山の金さんといった、時代劇はかろうじて観ていたが、火サスの再放送の方が馴染みがあった。


社会科がニガテといっても、テストのときや授業のときこそ苦労したが、これといって学生生活に支障はなかった。さらに大学進学以降はさっぱり出会うこともなくなった。

唯一、世界史については、バイトでためたお金で海外旅行へ行った際、名所の説明を聞いてもそれにリアクションするだけの素養、教養が無いことに気づくことになる。しかし旅行は楽しく、帰国する頃には世界史を勉強しようという気持ちはなくなっていた。


私がこのままではまずいといよいよ行動に出るのは、これから社会人にならんとするタイミングであった。


ここからが、このままではまずいと気づくも関係修復困難期である。ちなみに現在もここから抜け出せていない。


就職先が決まり、学生から社会人になると自覚した途端、私は急に不安になった。こんなに常識の無いまま社会に出てよいものか?と。

四国四県すらすらすらと出てこない、もちろん位置もわからない。住んでいる地方の天気予報は日々、目にするはずなのに、近隣の他府県の位置すらあやしい。

これはかなりまずいぞと慌てた私はこれさえ読めば地理がおさらいできる、日本史が理解できると謳った本を買って読んだ。まっとうな社会人になるために。

読んだがさっぱり頭に入ってこなかった。

読むこと自体もなかなか辛かった。本を読むのは昔から好きなのに...。



ここまで書いてきて、私が社会科をニガテになった理由を考えてみたい。

まずは、基礎の欠落。

ベースとなる知識を頭に入れていないから、覚えることも理解することもままならない。

そしてもうひとつ、興味の無さ。

私には社会科に興味を持ちやすい環境にいなかった、また自分から興味を持つこともなく、人生を変えるような恩師との出会いもなかった。


なお、親をはじめとする環境や社会科の先生方のせいにする気は一切ない。こういうのは運とか縁の問題だと思う。私が興味を持てたら、何か変わっていたのかもしれないが、さっぱりだったのだ。

環境×出会い×興味となるのか?

どんなに環境と出会いに恵まれても本人に興味がなければ、さっぱりな気がする反面、興味があればそれ以外の要素はあんまりでも好きになれそうな気もする。

興味はちょっと別格な気もしてきた。


しかし、ちょっと勉強した方がよさそうだ、思うとか、これはまずいと勉強しなければと思って本を読むとか、私はなんとかしようとしたこともある。この程度の生半可な気持ちではダメなのか。

この場合の要素は、興味ではなく動機か。動機があっても私は興味をもって学ぶことができなかった。もはや多少の動機ではこじれてしまった気持ちで興味を持つことが難しかったからか。


ずいぶん長くなってしまったので、最近の私と社会科(特に歴史関係)にまつわるあれこれと、こじれてしまった関係の行方については日を改めて書こうと思う。



私たちに和解の日は来るのか...

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