生き方の指針みたいなもの
良く言われる"自分自身に正直になる"といったこと。
それはわかるんだけど、と、脇に置いていた。
その自分に正直になる、ということは、どこまでも自分を偽らずに、自分を平らに、真っ直ぐにしていくような行為だ。
自分に正直になったつもりになる、ということは簡単でも、本当に一つの違和感もなしに、正直になることは難しく、というよりも、そこまでするというイメージ、発想がない。だから難しく感じるし、現実的ではないのでやめてしまう。試してみない。
これまでの自分のこと。
これからの自分がどうありたいか。というと、恥ずかしさ、これは周りへの幻想なので無視してよく、自分にとって、どうこの世界と関わることが良いのかということを、どこまでも深く見極めていきたいと思っている。
その為には、考えていることを、吐き出すこと、をためらってはいけない。
違和感を疎かにしてはいけない。
ただの日常の、芯から出た感想は、自分がどう在りたいのかを教えてくれる筈。
Twitterをみて、だれかを馬鹿にしている人たちのことが、どれほど馬鹿に見えるか。
あいつは何もわかってない、ということを言う人の、あいつのことをわかろうともしていない、という浅はかさ。客観性のなさ。そういう場、そういう客観性をまた必要のない環境だから、だれかが言い合っているようで、お互いにだれか別の人のことを言い合っている。そこで群れて、線引きをして、自分たちとそっくりな集団を攻撃している。
自分の言ったことを録音して、聞かせたら、それに対して反論するのじゃないか。という。
虚しい。荒れ果てた人の心だ、と思えてしまう。
だからここに逃れてきた。
吐き出す為だけに、ここにきた。
自分に誠実になる。自分に誠実でいる。
正直になる。自分を偽らない。
色々な言葉が、可能性と、ただの抜け殻として転がっている、両方の面がある。見るたびに違う。
仕事は楽しいか?と聞かれて、仕事の何が嫌で、何が楽しいのか、ちゃんと考えたかった?
楽しいと言ってしまいたくなる自分が、少し躊躇うことで、自分がそう言うことを許してしまった。
生きることに値することなのかな。自分がこれをやることは。そんな気高い気持ちで仕事をできていますか?人に期待して、尊重していますか?
期待を読み解こうとして、それが何も読めないから、ただ不安になる。だれも自分を認めてはくれないから。
その環境自体が、自分がそこにいるべき環境なのか、もう一度、何度でも考えたい。すぐに働かなくてはいけない、という前提から、今の仕事を続ける自分、という前提から考えてしまうから、嫌いなものも好きになろうとしてしまう。
嫌いでいるべきもの、というものもあるのじゃないか。
それはだれの為に?
心の底から、世界のために、そうであって良い、と思う。
だれかを嫌いでも、何かを嫌いでも、嫌いということで、それを傷つけさえしなければ、世界は関わらないでいられるくらいは広いから。
自分のことを好きになる、嫌いになる。
自分こそが1番好きになるべきこと。
でもそれでも、好きになれないなら、それで良いと思う。人生はそんなに長くないから。
いつが収穫の時期だ?
いつも収穫の時期だ。
今がそうだ。
収穫がなければ、外に出れば良い。
隣がダメならもっと遠くにいけばいい。
別れが怖いのなら、目を閉じて、震えているしかできない。
でも、それでもいいよ。
そんなことは、あなたにとって大したことじゃない。
大したことは、自分を裏切ることだ。無理に自分を捻じ曲げることだ。
なんの倫理の元に、認識のもとに、信念のもとに、立っている?
そこが揺れ動いたら、あなたはあなたとは違う人になるだろう。
そうだとしても、それでも良いと思うよ。
でも、それ以外のことは、もっともっと小さな、大したことのないことだ。
生きるに値しないか?
生きるに値する時間。
値する仕事。
値する会話。
それしか望まなくていい。
働きたくないのなら、働かないでいる選択肢を選ぼう。作っても、探してもいい。
やりたいことと、やりたくないことを、しっかりと考えよう。
人には一杯嫌われよう。
バカにされよう。
そして自由になろう。