見出し画像

公務員と建築。#3 大学入学から就職まで

大学入学から入庁までの記録。

受験勉強で終わりじゃなかった。


2009年4月に大学に入学した。

ここで高校より遥かに高い本格的な理系の教養科目の壁と向き合わなければいけなくなった。

受験勉強で終わりじゃなかった。ここからだった。(当たり前)

1年生の教養科目は数学、物理、化学など苦手だらけのオンパレード。それに加えて構造力学の講義が始まった。追試になったり、単位を落としたり笑えるくらい低空飛行だった。1年生の前期で苦手な道に進むことの過酷さを痛い程感じた。英語やフランス語の授業が癒しだった。バイト先の塾で英語(リケジョなのに)を教えながら「本気で道を間違えた。無理するんじゃなかった。得意なことを活かした方が絶対賢い・・・」とずっと思っていた。

泳げないのに海に入ってしまって溺れている気分だった。


曇天から晴天へ。留年と考えの変化。


相変わらす、教養科目や構造力学は苦手だった。人の3倍勉強してやっと着いていけるかいけないか。構造力学の講義で教授の助手の大学院生の先輩が苦笑いするほどだった。

「なんで建築なんてやろう、やれると思ったんだろう」

そんなことを毎日考えながら、逃げることばかり考えていた。

しかし建築設計の実践的な講義が始まると雲が晴れるように迷いが無くなり、ものをつくる苦しさもひっくるめて建築の魅力に更に惹きつけられる事になる。

初めての課題は海辺の週末住宅(別荘)だった。

周りの人は芸術的センス溢れる華やかな作品が多かった。工業高校出身の友達は圧倒的に図面が美しかった。そんな中で、私が出した作品は保守的で現実的なものだったと思う。図面も美しいとは言い難いレベルだった。つまらないものを作ってしまったと思ったし、自分がイメージしていたものとは違うものが出来上がり提出するのが恥ずかしいと思うくらいだった。私が作った作品は海辺の立地を生かした究極にシンプルな土間のある別荘だった。先生には評価してもらえないだろうなと思いながら、提出したのを覚えている。

すると何故かA +の一番良い評価がついた。

先生が全体で講評する為の作品を数個選びはじめると私が作った模型を選んでくれた。そしてモニターに映しながら「丁寧に考えられたことが伝わる作品。最初の課題でよくここまで考えてまとめた。シンプルだけど計算されていて綺麗」とコメントをくれた。

今思うと私はこの時から、まるでGoogleマップの黄色い人型の人形になって自分の作品の中に入り込んで動くイメージを繰り返していた。人の動きを軸にゾーニングをして徐々に視点のスケールを大きくしていき、その中にいる人の感覚をイメージしながら細部を大切につくる。形は後からついてくるもの。だから造形的で人にインパクトを与える華やかな作品は作れなかったが、誰かに自分の価値観を認めてもらい、評価されたことが嬉しかった。

ずっと順調に作品が評価され続ける人もいたが、私は波があった。評価される作品と自分の作品の傾向にギャップがあり、どんなに丁寧に考えても敵わないと感じる時期が続いた。何日も徹夜して考えてもまとまらない。そんな横で数日でさらりと完成させ、私より良い評価がつく友人の作品を見て努力はもちろん、才能とセンスが必要な世界であることも学んだ。(今はセンスは磨けると思っている。センス=情報量だと思っている。)

そんな中で美術館を作る課題が出たときのこと。練り上げた考えを模型にして提出すると、先生が模型を壊し始めた。バキバキにボロボロに。

うわーと思った。でも同時に自分の凝りかたまって決めつけていた枠を一緒に壊してくれているような気持ち良い感覚もあった。

その美術館の課題はその後大きく形を変えたが、初めて提出した課題ぶりにA +の評価が付き、ゲストで呼ばれた建築家の方々と先生方にプレゼンをした。

その後に友人と共同制作で取り組んだ大学の国際交流センターを作る課題も建築家の方から「コンペに出したら評価されると思うよ。実現性の高い作品だ」とコメントを頂いた。選定敷地内で完結させることなく、周辺の都市計画も一緒に提案した(本当はやっちゃいけないと思う)。与えられた課題の枠を大きく超えたから、怒られるかもしれないけどやってみようと友人と挑戦した課題だった。この作品は友人と結構派手にぶつかりながら、途中解散の危機もありながら(笑)作りあげた思い出深い課題だった。


この2つの課題を経て、自分は迷うことなく大学院に進学し就職先は「設計事務所」だと考えていた。バイトで設計事務所の模型作りを手伝わせてもらいながら、建築設計の課題に夢中で、苦しいことも含めて楽しくてしょうがなかった。でも何故かコンペに出す経験をした事がなかった。誰かと競うとか、評価に興味がなかったからだったと思う。ただ、設計をしていられれば楽しかった。(今となっては勉強の為にも経験しておくべきだったと思う)

その後意匠系の研究室に内定をもらい、配属が決まった。

しかし、大学3年生から4年生に進級出来ず研究室に所属出来なかった。

座学の単位が1単位足りなったのだ。設計課題に夢中になり座学の講義をサボりがちになったことや1年生からの成績が足を引っ張った。好きなことばかりやってしまいやるべきことを疎かにしたことを死ぬほど後悔した。

父に報告すると、こっぴどく怒られたが、1年間頑張れと時間をくれた。

前期に必要な単位を履修し、約半年間就職について考える時間が出来た。

ここで自分の考えに大きな変化が生まれる。

大嫌いだった公務員になる為に生きてきた人との出会い


意匠系研究室に配属が決まる直前によく製図室に手伝いに来ていた同級生の男の子と仲良くなってしばらくして付き合う事になった。私の留年中あらゆる面で支えてくれた彼は都市計画系の研究室に配属が決まっていて公務員を目指していた。お笑い芸人みたいなお調子者だったけど根は誰よりも地に足がついた考え方をしていて、大人で、真面目だった。

私が子供の頃から大嫌いな公務員になる為に努力している人と初めて会った。彼はよく公務員の仕事の意義を丁寧にキラキラした目で話していた。大学院まで市民協働など自治体業務に関する研究をしていた彼は、条件よりも仕事そのものに価値を感じて目指すタイプの人だった。そんなに公共の仕事に興味があるならとある日父を紹介した。

市役所の職員を目指す彼と父はすぐに打ち解け3人で一緒に焼肉に行く事になった。そこで初めて、父の仕事への想いや内容の詳細を聞く事になる。

2人はお酒も入り、職員の仕事の魅力を熱く語っていた。その間、都民の為にという言葉が父の口から何回出ただろうか。今まで知らなかった行政マンとしての父とそれを目標にしてきた彼と2人がとてもかっこよく見えた。私が中学生の頃家庭が大変だった時(♯2参照)、父がどんな仕事をどんな思いでしていたか初めて聞くことになった。そして父は都の職員だったから、彼に首都東京の仕事のやりがいを熱弁していた。彼は受験してみるとは答えたものの、あくまでも生活者のリアルな声がダイレクトに届く市区町村単位の立場に拘りたいと話していたのが私の心に強く残った。

2人の話を横で聞いていて、自分の為に建築を学んできた私は、建築を仕事にするという事を改めて考える必要性を感じた。建築を通してどんな風に人の役に立ち社会に貢献したいのか。それと当時にどんな人生を送りたいのか。この留年をして立ち止まった事で向き合うチャンスを与えられた気がした。

この時期にふと、私は建築学科にいて少なからず建築に興味がある人に囲まれて過ごしてきたけれど、社会全体を見渡した時建築を美しいと思う人は沢山いても、どのくらいの人が自分で不動産や家を所有し、そこにお金を掛けて学校で出される課題のような、講義で習ったような空間を体感出来るのだろう。と思った。建築にお金を掛ける事が出来ない人、優先順位が高くない人が大半を占め、収入に余裕のある人か強い興味を持つ一部の人に限定されるのではないかと考えた。日本の景観や建築に対する意識は一部の地域を除いて、まだまだ高いとは言えない現実がある。12歳の時にカナダで見た街と日本の街の美しさや意識に大きな差があることを思い出していた。

性別、国籍、職業、収入に関係なく、建築への興味が有る無しに関係無く、自然とそこにいる人の心が高揚するような、心が動く居心地の良い場所を日本に作りたい。その集合体が魅力ある街となり、そこでの何気ない生活が人の人生を豊かに出来るのではないだろうか。数少ない特別な日を彩るよりもより、身近で日常生活に近い建築を作ることで誰かの人生を少しでも豊かなものに出来たら。人生とはいかなくても、1日でも、時間でもいい。それが出来る仕事を探そうと思った。

そして、私は女性でこれから結婚や出産などのライフステージの変化に対応しながら働いていく現実も考えなければと思った。出来るだけ長く、ママになっても建築の仕事をしていたいと考えた。(この時は)

そして

公共建築を作る仕事=建築職の公務員

という一つの答えにたどり着いた。

アトリエ系設計事務所を目指していた自分には想像もしない選択だった。

当時私は建築職の公務員がいることや行政に公共施設の設計や計画をしている部署があることは知らなかった。これを知った経緯は父からなのか、当時付き合っていた彼なのか覚えていない。

建築学科の学生の中にこの選択があることを知っている人はどのくらいいるだろうか。就職を考えるとき組織設計事務所、アトリエ系設計事務所、ゼネコン、工務店、建材メーカー、ディベロッパー、ハウスメーカーなどが一般的な選択肢に上がるのではないだろうか。(この話は別の記事で詳しく書いていきたいと思う)

実際に受験勉強を始めた時、この職種の情報量の少なさに驚いた。公務員試験の予備校の説明資料を見てもほとんど情報が無かった。なので予備校には通わずに独学で対策することにした。でも、面接が始まったときのことを考えると、説得力がある志望動機を伝えるには知らないことが多すぎると思った。

そこで、現役の建築職の職員の方を紹介していただき、話を聞かせていただけることになった。それが今勤めている役所の先輩職員の方達だった。

役所近くのファミレスで待ち合わせて、3人の先輩に話を聞いた。ネットにも本にも無かったリアルな話を沢山聞かせていただいた。4回ある面接試験の雰囲気や対策まで丁寧に教えてくれた。印象的だったのが、この先輩達の仕事に対する考えと情熱だった。こんな公務員の人がいるんだとここでも思った。ある一人の男性の先輩が「市民の声や要望を一番理解して形に出来る立場にいるのが自分達だと思っている。ゼネコンや設計事務所にも委託して仕事をするけど、他の立場には無いやりがいがあると思う。」と話してくれた。

この言葉を聞いて、「ここでこの人達と働いて、こんな職員になりたい」と思った。

その先輩は若くして一級建築士資格と建築主事資格を持っていて、優秀な人だった。それに奢ることなく、謙虚で親しみやすく、後輩思いで、上司に立ち向かう勇気もある人間としても職員の先輩としても今でも本当に尊敬している。

公務員試験を受けると決めたとき、周りの友達は驚いたと思う。何故なら、私はこの大学に入ってから、いや入る前から試験の成績が良かったことは無かったから。単位もギリギリで留年もしていたから。

私自身が一番不思議だった。何故なら、大嫌いな絶対になりたくなかった職業に付くことを目指して一番苦手な勉強をしていたから。

留年して4年生になったとき、当初配属予定だった意匠系の研究室には行かなかった。県庁職員出身の水環境工学が専門の教授の元で、公務員を目指す同期の友人と湖や河川に流入する放射性セシウムに関する研究をして、論文で卒業した。卒業設計よりも論文の方が試験勉強と両立出来ると思った。

実験装置と向き合って、データを出す作業をしている自分を客観的に見て製図室で必死にCADと向き合って模型を作っている自分との違いに笑えた。興味のある分野では無かったけど、同期のメンバーにも恵まれて新しいことを学ぶ楽しさを味わっていた。

1年前の自分では考えられない選択をして、全然違う道を選んでいた。

そして2013年5月に受験し、筆記試験を含む5回の選考(本当に長かった)を終えて、内定が出たのは秋になってからだった。

合格通知を自宅で開封して泣きながら親友に電話した。


この合格はこの当時の自分の人生で初めて心から自分を褒めてあげられた出来事でもあった。

就職して7年を過ぎた今もやっぱり苦手だなと思うことは山ほどあるし、入庁したての頃は学問と仕事としての建築の違いに戸惑いを感じていた。

理想と現実の違いに落ち込むというよくある経験も沢山してきた。

力不足や経験不足による無力さに嫌になる事もある。

高額予算の一品生産品を世に残す仕事の責任や難しさも感じている。


誰かに「夢を諦めないで」なんて安易な綺麗事が言えるほど簡単ではなかった。


それでも


12歳の時に幼いながらも確かに感じた建築の可能性を信じる気持ちや、「心が高揚する、居心地の良い場所を公共施設というより多くの人に届く形で作り続け、街としての魅力を高めながら誰かの日々を少しでも生きやすく豊かにしたい」という思いと「好き」というシンプルな気持ちがどんなに理不尽な出来事も、体力的精神的に辛い業務やスケジュールも乗り越える力をくれた。

自分の気持ちを大切にして選んだ道は、楽ではなかった。でも苦しいこともひっくるめて楽しい。毎日新しい学びがあってマンネリを感じる事もない。「何の為に働いているんだろう」という気持ちになったこともない。


ひとつも後悔していない。それが何よりも良かったこと。


同じ職業を条件や生活のためだけに選んでいたら、ここまで続けることは出来なかったと思う。


続く




▶️次回は・・・♯1から♯3のストーリーからシェアしたいことのまとめ

♯5から社会人になってからのお話を書いていきます。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?