クラーナハの<ヴィーナス>
クラーナハの描く女性像、ヴィーナスは、他のどの画家が描くものとも似ていない。
ボッティチェリのほのかな恥じらいを含んだヴィーナス。
ティツィアーノの吐息や体温すら感じ取れそうなヴィーナス。
それらのイメージを覆すのが、クラーナハのヴィーナスだ。
薄いヴェールを手に、緩やかなS字型を描いて立つ姿は、仏像に近侍する菩薩にも似ているかもしれない。
上の二人、イタリア人によって描かれたヴィーナスが、おおらかで健康的なのに対し、クラーナハのヴィーナスは、冷たく病的だ。紗の布を手に、口元は一応微笑んではいるが、つり上がった目は意地悪く光り、うかつに近づけば引っかかれかねない。
首周りには、真珠や宝石をはめた金のアクセサリーが飾られ、肌の乳白色を、そして彼女が裸であるということをいっそう際立てる。
同じ「裸婦」でも、見てはいけないものを目にしているような感覚に陥らされる。
「見てはいけない」―――意地悪く光る眼が、ヴェールをつまむ手が、そのことを意識させる。
そして、それ故に人はゾクゾクする。「見てはいけない」というルールをこっそり踏み越えている、ということにほの暗く甘い楽しみを覚える。
それは昔も今も変わらずに、人が持っている性分でもあろう。
ちなみに、2016年のクラーナハ展に寄せて書いた記事はこちら。
クラーナハの女性像の独自性がどこから来たのか。
素朴な疑問に端を発し、当時のファッションアイテムなどについても言及している。
参考までに。