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鶏口となるも牛後となるなかれ~若冲、カサット、クリムトの選択 ②メアリー・カサット

異端児集団、印象派


小学館の「@DIME(アットダイム)」にこんな記事を見つけた。

 日本では、印象派の人気が高い。

 理由の一つは、色彩の明るさや描かれているモチーフの親しみやすさ、でもあろうか。

 しかし、彼らが活動していた19世紀当時の美術界では、彼らは「異端児」であり、批判や酷評にさらされていた。(「印象派」の名前自体も、もとは作品の一つに対する悪口に由来する)

 だが、そのような状況の中で、敢えてその「頭のおかしい集団」の中に自ら飛び込んでいった一人のアメリカ人女性がいた。

 メアリー・カサット(1844~1926)である。

メアリー・カサット(1844~1926)


メアリー・カサット、<桟敷席にて>、1878年、ボストン美術館

「お前が死んだと聞いた方がマシだ」

 10代のメアリー・カサットが「画家になりたい」、という自分の希望を伝えた時、父はこう返してきた。

 当時、19世紀という時代は、裕福な身分の女性が仕事を持つことははしたないこととされていた。

 絵についても、たしなみとしてはともかく、仕事とするべきものではなかった。

 しかし、彼女の思いは変わらなかった。

 故郷ペンシルバニアでの勉強に飽き足らず、彼女は母と共にパリへ向かう。女性であるという理由から、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)には入学できず、有名画家の運営する私立の画塾に参加する。

 しかし、彼女がより多くを学んだのはルーヴル美術館での、巨匠たちの作品の模写を通してだった。

 また、1870年に勃発した普仏戦争を避けての一時帰国を挟み、再びヨーロッパへ渡った時には、イタリアのパルマやスペイン、オランダなど各地を巡り、その地の美術を研究、吸収していった。

 メアリーは、人が作り、与えるカリキュラムをただ受け取るのではなく、自分で学ぶ対象をセレクトし、オリジナルのカリキュラムを作り、それをこなしていったのである。

 その成果もあり、彼女の作品は当時の画家の登竜門であったサロン・ド・パリに入選するようになる。

 しかし、保守的な「審査員が気に入る」作品の傾向は決まりきっていた。(傾向と対策を押さえる、という点では大学入試に似ているかもしれない)

 新しい技法や試みはかえって嫌われ、独創的な作品は入選できなかった。

 メアリー自身、初めてサロンに送った作品の一つについて「色が明るすぎる」と酷評されている。

 その後も応募は続けていたものの、次第に、彼女の中ではサロンへの不信や疑問が生れてきた。

 このままで良いのか。このまま、審査員に諂うような絵を描くことが、本当に自分のやりたかったことなのか。


 そんな彼女の目に、ある日一枚のパステル画が飛び込んできた。

 彼女はショーウィンドーに鼻を押し付け、その絵に見入り、できる限り自分の中へと吸収しようとした。

 その絵の作者こそ、誰であろうエドガー・ドガだった。

エドガー・ドガ、<バレエの稽古>、1875~77年、プーシキン美術館


 1877年には、ドガ本人がメアリーのアトリエを訪ねてきた。彼自身が参加している展覧会、「印象派」展への誘いを携えて。

 その年に開催されたサロンに落選したメアリーにとって、それはまさに「希望」そのものだったのではないだろうか。

 ここでなら、自分の描きたい絵を描き、発表できる。

 メアリーは迷わなかった。

 早速2年後の1879年に開催された第四回「印象派」展にこの<青い肘掛け椅子の少女>をはじめとする作品を出品。以後、計4回にわたって作品を出品し続けた。

メアリー・カサット、<青い肘掛け椅子の少女>、1878年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー


 同時代に生きた第三者から見れば、彼女の決断は「愚か」、信じがたいものだろう。

 画家として成功する確実な道であるサロンに入選し、そこそこの評価は得ているはず。それを捨てて、あの「頭のおかしい」集団に自ら加わっていくとは。

 絵の道に進むと決めた時の、父親との確執も考えると、メアリーはまさに茨の道に素足で踏み込み、歩き続けているとも言えるのではないだろうか。それも、より茨の密集した、より険しい道へ、と足を進めて行く。ほかならぬ自分の意思で。

 だが、メアリーは後悔など一瞬たりともしなかったに違いない。

 印象派参加を決めた時のことについて、こう語っているのだから。

「私は生きることを始めたのです」と。

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