清水寺・胎内にて考えた~京都旅行レポート
先日の京都旅行で、清水寺にも行ってみた。
前回から9年ぶり、二回目の参拝になる。
その時に、胎内めぐりも挑戦した。
こちらも二回目。
胎内めぐりは、清水寺のパワースポットの一つで、灯り一つない真っ暗闇の中を、左側の数珠を象った手すりを伝って進む、というもの。
奥にある梵字を書いた石にタッチすれば、願い事が一つだけ叶う。
せっかく京都に来たのだし、是非に、と意気込んで早速中へ。
手すりの凸凹を握りながら、一歩二歩・・・
「うわ、何これ?!」
甘く見ていた。
前回来た時も、挑戦したはずなのに。
時間が経ちすぎて、記憶も曖昧になっていたせいもあるだろうか。
外の光が一切遮断された空間は、黒一色に塗りつぶされ、広いのか狭いのかもわからない。
自分の声だけがやけに大きく響く。
先に入った人もいるはずなのに、気配がわからない。背中にぶつかったりしないだろうか、などとも一瞬思ったが、杞憂だった。
それより、私自身、こんなところで突っ立っていたら、後がつかえてしまう。先に進んだ方が良い。
たぶん、先客たちも同じことを考えただろう。
進もう、とにかく。
ゴールの、石が安置されている場所は、確かそこだけ上から照らされていたはずだ。
そこに行き着けさえすれば・・・
・・・・・・
なかなか着かない。
どのくらい進んだのだろう。
確か、一方通行だから、手すりを伝っている限り、迷子はとりあえずありえない。
だが、自分がどのくらいの時間、ここにいるのか、あとどのくらい進めばいいのか、皆目検討がつかない。
そして何より、一人だ。
光は未だに見えない。
先ほど、怖くなって出てきたらしい子供を入り口で見かけた。
無理もない、と今なら思う。
大人の私でも怖いのだ。不安で、たまらない。
本当にゴールに着けるのか。
頼りはこの数珠(手すり)だけ。それを掴んでいるしかない。
同時にこうも考える。
「叶えたい夢に向かって本気で進む、ってこういう事なのだろう」、と。
胎内に入れば、光からも音からも、シャットアウトされる。
踏み出す足と、手すりをつかむ手に全神経を集中せざるを得なくなる。
やりたい事、やるべきこと、その他日常の様々な物事ーーーしつこく頭を埋め、からみついていた雑念が、闇に足を踏み入れた瞬間、ぶつりと断ち切られる。
ゴールの石に触れれば、願いが一つ叶う。
では、その夢とは?
それは、人それぞれ。
だが、どうやったら良いか、具体的な方法や距離がわからないから、ここに来た点では共通していよう。
夢や目標を持っていたとしても、日々の生活の中で熱意がぼやけたり、手段や過程そのものに囚われて、ゴールのことをいつの間にか考えられなくなる、ということもあるだろう。
この清水寺の胎内は、一時的にでも、一切の雑事と縁を切って、「欲しいもの」「叶えたい夢」と向き合える場所と言えよう。
ゴールの石に触れれば、それは将来叶う。
だが、願いの内容にもよるだろうが、触ってそれでおしまい、というわけではあるまい。
この胎内めぐりの記憶を抱いて、外に出た後、新しい気持ちで目標に向かってまた歩きだす。急ぎ焦らず、できることから、一つずつでも積み重ねていく。
一寸先も見えない闇の中で、それでも叶えたい、と思ったのはどんなことか。
それを考えるのも、この場所の効能の一つと言えるかもしれない。
原点に立ち返り、とことん向き合う。
それが出来る場所があるのと無いのとでは大きく違う。
外に出て、坂を下りながら、私はこの清水寺がある京都に住む人が羨ましくなった。