都市計画への夢
(2020年2月25日の日記から)
エーリッヒ・フロムが『希望の革命』のなかで度々引用するルイス・マンフォードが、田園都市構想を打ち立てたハワードの名著『明日の田園都市』にF・J・オズボーンと共に序文を書いているその人であるということに気付いた。
フロムがマンフォードの人間観及び機械と人間に関する考察を肯定的に紹介しているので読まねばと思っていたのだが、実はハワードの『明日の田園都市』に描かれる都市像ならびに、現代ドイツの建築家、都市計画家たちが構想した「間にある都市(Zwischenstadt)」は、私が市議会議員として仕事をするなかで、八王子の都市計画が目指すべき方向性として繰り返し提起してきたものであった。
マンフォードが『明日の田園都市』に寄せている序文を改めて読み返してみると、ハワードが目指したものと共通するものとしてクロポトキンの思想が挙げられている。いわく、「ハワードが必要としたことはーーこれは同時にクロポトキンが宣言したようにーー都市と農村の結婚であり、農村にある心身の健康と活動性と、都市の知識と都市の技術的の便益と都市の政治的共同との結婚であった。この結婚の手段が〈田園都市〉であった」(「田園都市理念と現代の計画」)
私はこれを読んで驚いたのだが、この都市像のなかに「ユートピア的社会主義」の可能性が含まれている、と思ったのである。
合田正人『入門ユダヤ思想』第6章のなかの記述によれば、人々がその内部で有機的に結びつきあい、ユートピア的社会主義を実現しうるものとしての「キブツ」の理念を支持していたマルティン・ブーバーの思想を紐解いていくと、ブーバーの学問の展開はグスタフ・ランダウアーというアナーキスト的社会主義者との出会いが転換点になっているのだという。更にこのランダウアーは、フランスのプルードンそして、ロシアのアナーキスト思想家クロポトキンの影響を強く受けているとされるという。ハワードの『明日の田園都市』への序文でマンフォードが引用していたクロポトキンである。
合田によれば、ブーバーはベルリンで設立された「新しい共同体(ゲマインシャフト)」に関わっており、この「新しい共同体」は、「誠意、人間的熱意、物腰の自由さ、感情と内面性の表現を連合するような社交性」を目指し、「都市と田園、自然と文化のあいだを往還しながら両者を接近させようとする日常生活を送り、手仕事と芸術的かつ知的な活動を和解させようと努めた」のだという。
また合田の解説によると、ランダウアーはマルクスの唯物史観を、「科学的迷信」として、小市民、小規模な農民や職人など過去のものはいずれも見下し、進歩を信じて疑わない「スノッブ」のものであると激しく批判した(合田はこうしたランダウアーの立場をヴェイユやアレントの先駆と位置付けている)。
しかし一方でランダウアーを理論的支柱としていたブーバーは、マルクスの『フランスにおける内乱』やパリ・コミューンを語ることのなかにユートピア的社会主義を垣間見て、これを「キブツ」が拓きうる「真の社会」実現の可能性として、つまりは希望として捉えていた。
「すなわちコミュニズムの「不可能性」という一般に流布された解釈とは反対に可能なものとして示されたコミュニズムなのだ。コミューンと協同組合の連合もまたマルクスによって真正なるコミュニズムと認められているのである」(ブーバー『ユートピア』)
極めて個人的な、恐らく自分の考えにとってのみ有効な発見なのだが、私たちがこの複雑化した現代において「より人間らしく」生きるための諸条件を可能にする都市構造とは何か、という問いを立てたとき、その都市計画を考えるうえで理論とすべきものが、ここにあるということである。
私は八王子の「都会でもなく田舎でもない」という地理性、文化性に注目して、「八王子は人口減少や少子高齢化、気候変動や格差といった現代の諸問題を解決するための都市構造に転換できる素地のある自治体だ」ということを一貫して市議会で訴えてきた。つまり都市計画と福祉政策の融合こそその道、細かく言えば、開発依存ではなく自然と住民との調和的共存を要とした環境政策、公共施設の集約と福祉的サービスの計画を重ね合わせること(サービスに従事する人々がより働きやすく、そのサービスの効力が最大化される施設の配置)などが私の主張であった。
まさに私が市議会で「間にある都市」のビジョンを提起したのと前後して、八王子市が2016年頃に公表したシティ・プロモーションの標語が「都会にないもの 田舎にないもの ここにある」であった。取るに足らぬ一年生議員であった私の質問を、都市戦略や都市計画を所管する市の当局が参考にしていたとは思えないが、このスローガンこそ、ハワードそしてクロポトキンが志向していた都市の姿を実現しうるイメージなのではないだろうか(残念ながら八王子市の執行部ないし「議会与党」が目指しているのはそれとは逆の方向性に見えるのだが)。
私たちがこの複雑化した現代において「“より人間らしく”生きるための諸条件を可能にする」ものを考えていくことは、現在「左派」ないし「社会主義者」を自認する者にとっては不可欠の要素であることは間違いないだろう。そしてクロポトキンからブーバー、ひいてはマルクスの思想の「実践」のひとつの形態として、都市計画が極めて重要であるということを私は述べたい。
フロムに立ち返るが、フロムがマンフォードの著作に魅せられていたのは、こうした「ユートピア的社会主義」を希求する思想家たちの一連の仕事との連関を絶妙に嗅ぎ取ってのことではないだろうか。
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