入管法とエスメラルダ

私の大好きなバレエのヴァリエーションは、『エスメラルダ』のエスメラルダの踊りだ。

この踊りを私は10年ほど前、都内で開かれたバレエコンクールで初めて見た。当時ふとした思い付きで通っていたバレエ教室(チケット制の大人クラス)の先生が、高校生クラスのとても上手な女の子の引率をされることになっていたので、一緒にくっついて見に行った。

出場者がそれぞれ、様々な物語の中から美しいソロの踊りを選んで舞うなか、私は『エスメラルダ』のヴァリエーションに釘付けになった。
足を高くあげて爪先でタンバリンを打ち鳴らし、凛として切ない旋律に乗って踊るエスメラルダは、私がそれまで抱いていた「クラシックバレエ」のイメージと異なり、切実に訴えかけねばならないことがあるのだ、といったふうな胸の高鳴りを覚えるキャラクターであった。

コロナ禍であまり遠出も出来なかった時期、家の中でできる娯楽をと思ってバレエのヴァリエーション動画を検索して見ていた。そこで10年越しに初めて、この演目がどんなストーリーなのかを調べてみたら、ヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』が原作となっている舞台であることを知った。

ユゴーの原作は最後、エスメラルダが処刑されてしまうが、バレエの演目ではエスメラルダは危機を逃れ、愛する人と幸せになるというストーリーになっている。(一方、この物語の主人公は美しいエスメラルダではなく、「せむし」の醜い男カジモドである。なお、ユゴーの原作は『ノートルダムのせむし男』というタイトルだが、差別的表現とのことで『ノートルダムの鐘』『ノートルダムドパリ』と改題されているようである)。

エスメラルダがシンティ・ロマの娘であるという設定やカジモドの出自の謎など、強く惹きつけられる物語である。ユゴーは子どもの頃に『ああ無情』を読んだだけでこれまで縁遠かったので、原作をちゃんと読んでみようと思う。

ユゴーの作品に通底する、弾圧と排除に抗するという「メッセージ」の強さに惹かれる人も多いのかも知れないが、私はと言えば、シンティ・ロマの人々が纏う寄る方なさと切なさ、流浪の民としてのロマン、そちらのほうが自分の感性にマッチしているのじゃないか、と思っている。

昔、ハンガリーを旅した時に国鉄の車窓から荒涼とした草地を眺めていたら、シンティ・ロマの人たちが火を焚いている姿が見えた。あの時に覚えたえも言われぬ郷愁が今も胸に残る。ハンガリーでロマの人たちとその他の人たちとの間に起きている深刻な問題について現地の友人の解説を受けながら、それでも「そこにいる」ことが定着しつつある彼らの姿に、強く心を動かされたのだった。

折しも、いま自分が暮らすこの国では入管法改正案の審議が大詰めを迎えている。「難民をほとんど見つけることができません」。難民審査にあたる有識者が国会でそのような発言をしてしまうほどに、この国の人権感覚は損なわれている。
差別され迫害され流浪することを余儀なくされた人々を、安全な場所にいる者が「何者であるか」と自分らの理屈で定義し排除する、その構図の歪さと暴力性が浮き彫りになっている。

あの場所を再訪できる日を心待ちにしながら、この国の排他性を改めて、強く憂う。

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