短編『腰曲がり』
悲愴にも熱がある。
しかし、いと寒き独り身においては、己の両腕で抱きしめておかなければならない。なぜなら、悲愴だけでは揚力が足りないからである。
花粉が薄まり空気が澄んできた今日この頃であるものの、くしゃみを一つ。眩しい自動販売機で一四〇円の缶コーヒーを買い、ポケットに捻じ込む。すれ違う車の列は長く、くたびれた灰色の運転席には人が座っていた。
目的地に向かいながら、くしゃみをまた一つ。鼻下を拭いながら歩くと、バス停が見えてきた。黒く半透明な風除けに囲まれた、耐雪型である。僕は奥歯を軽く噛みしめながら、缶のプルタブを開けた。夕方の空は、しかし焼けることを知らないようで、多様な重さを湛えた層雲が空を埋めている。コーヒーを一口飲むと、慣れ親しんだ苦みと熱が広がった。
すると、熱に浮かされた鼻腔がまたくすぐってきたので、僕は手で口元を押さえた。顔をしかめて歩く。
「何か落とし物ですかな?」
声がした方へ顔を向けると、老爺がベンチに座っていた。彼は妙に上品な黒いダウンジャケットに、生地がくたくたで土色のマフラー、整えられた白髪、といった容姿である。足の間には黒茶色の杖を携えていた。田舎特有の、異様に地域の繋がりを重視する老人の類であろう。集団下校する小学生に、おかえり、と声をかける類の老爺だ。
しかし、田舎育ちである僕は、この手の対応には慣れていた。おそらく、くしゃみを我慢しようと体を丸めた姿が、落とし物を探して足元を見ているように映ったのであろう。いえいえ、何か落としたわけではないんです、と僕はにこやかに発した。すると、そうかそうか、何かお辛いことでもあったのでしょうな、と老爺は口の中で話した。うむ、こういう場合は適当に話を合わせるのが得策であろう。バスはあと十五分ほどで着くのだから。
老爺はベンチの右端に座っていたので、僕は左端に腰を下ろした。缶を両手で包みながら、背中を丸めて肘を太腿で支える姿勢になる。老爺は筋張った両手を組みながら、正面のアパートを見上げていた。二階の角部屋以外はすべて、照明が点いていないようである。
お兄さん、背が高いんだねえ。私は最近、腰が痛くて高いところが届かんのですよ。老爺がまた話しかけてきた。医者に言われたので着けておりますが、どうにも腹が苦しゅうて敵わんのです。
なるほど、道理で姿勢が良いわけだ。僕は背筋を伸ばし、コーヒーを飲んだ。でもおとうさん、あなたも背が高いじゃありませんか。ジャケットがよくお似合いですよ。意識的に目を見ながらそう言うと、老爺は嬉しそうにマフラーを撫でた。
「末の子が買ってくれたもんでしてな。あの子、先月結婚したんです」
「へえ、おめでとうございます」
「子どもらは三兄妹でして。長女が一番はしゃいでおりましたわ、子供の名前はどうするの、相手はどんな人なのって」
「はは、微笑ましいですね」
ええ、ええ。老爺は何度も頷いている。すると、一台のバスが交差点を曲がり、大きな音を出しながら目の前に停車した。ちらと老爺を横目で見るが乗車する気配はなく、バスに気づいてすらいないのではないかと感じさせる。運転手はこちらの様子を窺うと、アナウンスと同時にドアを閉め、バスはゆっくりと発車していった。
「ところで、お兄さんは最近どうなんだい? 元気にやってますか?」
最近どうなんだ。これは老人の常套句だ。大変迷惑である。なぜ道端で顔を合わせた人に、僕の近況を話さなければならないのだろうか。
しかし、しょうがないので、まあ可もなく不可もなくという感じですかね、と話した。では仕事はどうなんです? やりがいはあるのかい? 老爺が質問を重ねてきた。仕事の話なんかしても、何もわからないだろうに。僕はげんなりした。この老爺は仕事のストレスなど、十年前後味わっていないだろうに。そんな言葉もまた頭に浮かんだが、それにもまたげんなりした。
「やりがいなんてものは、一つもありませんよ」
「ふむ、どうしてですか?」
「新社会人の頃にあった瑞々しさなんてものは、他でもない幻想だったんですよ。それに、僕は今年で三十二歳ですが、直属の上司は五十代です。働く意欲なんてものは、あっても重荷になるだけですよ」
「では、なぜ今もその仕事を?」
「……生活の為ですよ」
「ほほう、どこかに遊びに行かれるんですか?」
遊びになんて行けません。そう言い終えるや否や、僕はコーヒーを飲んだ。この時期になると、缶がすぐに冷めてしまうのである。
缶を横に置こうとしたとき、老爺が座っている方角から突風が吹き、バス停が音を立てて揺れた。目を一瞬細めた後に右を見ると、やはり老爺は動じていないようだった。
「ああ、そういえば、結婚は考えておられるんですか? お兄さんの年くらいが、一番良い時期だと思うんですがねえ」
先程も結婚の話題が出てきたが、正直これが今最も忌避しているものであった。会社の先輩もそうだが、なぜ年を重ねた人間は若者に結婚の話題を寄越すのだろうか。今日の会社でも、あんたは早いうちに結婚しなさいね、良い女は売れ残らないのよ、などと女上司が誇らしげに話しかけてきたのを憶えている。嫌気が差すほどに熱っぽい口調であった。
しかし、この老爺とは行きずりの縁である。気兼ねない相談相手としては、これ以上なく都合がよかった。
「……婚約者がいたんです」
「ほお、素敵ですね」
「いえいえ、今はもう婚約者はいないんです。数か月前、いきなり婚約を破棄されてしまいましたから」
僕はコーヒーを一口飲んだ。大分冷えてしまったようで、奥歯に根深い苦みを感じる。それが心地悪くってしょうがない。それから僕は、滔々と自分の靴にめがけて、思いを吐露してしまった。
六月の末、同棲までしていた彼女に別れを切り出されました。本当に突然のことで、僕は彼女の言い分を聞くので精一杯でした。まずは誠実に話を聞こうと思いながら、うん、うん、と何度も生返事をしていると、気づけば彼女は出ていくことになっていました。
彼女とは仕事の取引先で知り合いました。互いの会社に影響がないように黙っていたので、職場の人は何も知りません。彼女は自分のことをあまり話さない女性でしたから、それだけが救いです。
「…………だから、あんなに苦しそうに歩いていらしたんですね」
僕は老爺の言葉が上手く飲み込めず、ゆっくりと右を向いた。
「お兄さん、姿勢を悪くして顔を手で覆って、泣いていらしたでしょう? せっかく背が高いのに、と思ったものですから」
ああ、なるほど。くしゃみを繰り返したせいで目に溜まった涙が、彼にはそう見えたのだろう。流石は田舎の老爺である。若者が泣いていると主観すれば、即断して親身になろうとするのだ。
「まあ、しんどい時ほど、背丈くらいは小さくありたいものでしょうな」
「……どういうことです?」
「私が若い時分は男も女も、今よりずっと背が低くってね、ええ。ですから、当時背が高かった私はよく、色んな手伝いをさせられたのですよ。やれ隣室の電球を替えてくれだの、やれ目立つから長をやってくれだの、面倒で敵わんでした、ええ」
「それは……わかります。目立つんですよね」
「はい、それはもう目を引くようでして。私の先輩は見下ろされるのが気に食わなかったようで、事ある毎に正座で説教されたものです」
「へえ……僕も会社で説教されたことはありますけど、何と言うか、自分より身長が低い人を怖いと思えないんです。本能的なものなんですかね。それが上司だろうと何だろうと、物理的に見下ろしているせいでしょうが、どこか精神的にも見下してしまっている気がして……」
「ううむ、それはしんどくて敵わんでしょうな」
驚いた。話している最中、僕はこの老爺が反発してくるものだとばかり考えていた。しかし、老爺はすぐに同意を示した。かなり独善的な考えであるにも関わらず、僕の真意までも理解したのであろうか。
顔を軽く上げると、先ほどまでは暗かったアパートの一室に光が見えた。すぐそばの交差点には、信号待ちをしている自転車に母子が乗っている。幼児はもこもこに防寒着を重ねられ、ヘルメットは映える黄色であった。
「はは、そうですね。しんどいかもしれません」
精神的にどこか相手を尊敬できない。これは一見すれば、かなり傲慢である。横柄とも言えよう。しかし、僕は自分に自信がない。それに、ただでさえ自信と縁遠い生活を営んできたというのに、婚約の反故によってそれは加速したのだ。
「心というやつは、自分でどうにかできるものではないですからな」
そうです、それはわかっているのです。考えすぎだと友人に言われたこともあるのですから。しかし、しかしです。自分が情けなく思えて堪らないのです。情けないという自覚と共に生きる人間にとって、他人とは自分よりも優秀な人間ばかりのはずなのです。勿論、そのようなことは幻想であると知っています。しかし、僕にとって他者を尊敬するということは、情けない己への慰めになってくれるのです。
「情けないですね、僕。見様によっては、贅沢者でもあるでしょうか」
「ええ、ええ。そうとも言えるやもしれませんな」
ははは、という音が出た。僕は一体、何をしているんだ。バスを待つ末枯れに、なぜこんな老爺に人生相談なんぞしているのだろう。こんな性分であるから、婚約者に逃げられるのだ。思えば、別れの際であっても、僕は彼女の話を真正面から聞いていなかったではないか。さらに、この老爺に対しても、僕は適当にあしらうつもりでいた。それが今や、真に仲の深い友人にも触れさせやしなかった、心の柔い部分を晒してしまっている。心のどこかで、この老爺を見下していないとできない芸当だった。
町は既に暗く、先刻よりも帰路に就く車が多くなってきた。コーヒーを一口、と思ったが、握る缶はとうに軽く、手の熱を奪う代物になってしまった。もうじき、目的のバスが来る。
「……私も他人の目線が、どうにも苦手でしてな。年寄りと呼ばれるようになってからは、努めて腰を曲げて生きてきたものです。年寄りだと他人が言うのなら、私は年寄り然としなければ、ええ。恥ずかしかったもんで」
「……しんどくはないのですか?」
「初めはそうでした。しかしね、いつの間にか腰が自然と曲がるようになりました。医者にコルセットを買わされてからは、意外と心は軽いものです。子供たちももう、立派になったもんですから」
老爺の言葉に、僕はあまりしっくりとこなかった。身長に悩みこそすれ、腰を自ら曲げるようなことは実践したことがなかったからだ。それに、自らの子供のことなど、今やかなり非現実的になってしまった。
「そういうものなのでしょうか?」
「ええ、人は皆、須らく自分らしさというものがわかるようになります。勿論、何事にも出掛かりには難がありましょうな。しかし、ああでもない、こうでもないと続ければ、いつの間にか己というものが見えてくるのです」
老爺を見つめていると、視界の奥から大きな鉄塊が近づいてくるのが見えた。老爺は上品なジャケットの袖を捲ると、慎ましい腕時計をちらと確認して立ち上がる。どうやら、僕が乗るバスとは別の路線らしい。老爺はうむと腰を軽く反らすと、再び背を倒して杖を突いた。なるほど、確かに背が高いようだ。
バスが信号に捕まると、老爺は横に向きなおした。おかげで、腰の曲がり具合がよくわかる。
「お兄さん、年寄りに付き合ってくれてありがとうねえ」
「あっ、いえいえ。こちらこそありがとうございました」
一応感謝はしたが、別に明確な啓示を得たわけではない。しかし思えば、この老爺と話すのは苦ではなかった。
「いいんですよ。お節介は年寄りにとって、数少ない娯楽ですから」
老爺はそう言うと、目の前に停車したバスに乗り込んだ。もうすっかり日が暮れたので車内は眩しく、それが離れていくと急に悲壮を感じた。右を向くと、今度は僕が乗る予定のバスが見えた。
すると、僕は視界の端の何かに気づいた。見ると、それはコーヒーの空缶であった。あのジジイ、と思いつつ空缶をポケットに捻じ込むと、バスのドアが開いた。車内からは、聴き慣れたアナウンスが響いている。