あれから30年、阪神淡路大震災の記憶
今年で阪神淡路大震災から30年になる。
1995年1月17日火曜日、5時46分。
中学一年生だった私は、神戸市東灘区の団地の10階で暮らしていた。両親と小学五年生の妹・優、一年生の妹・望の5人家族だった。毎年この日になると思い出すことがある。思い出す音がある。思い出す記憶がある…。
この日のことを書いて残したいと思い、部分的に書いたことはあったものの、まとめて書いたことはなかった。長く時間が経ったからこそ書ける気持ちがある。
地震前日の1月16日は三連休の最終日だった。妹たちに寄ると家族みんなで近くのショッピングセンターに買い物に行っていたらしい。夜ご飯にハンバーグとクリームシチューを食べ、明日学校に行ったら内田有紀のラジオの話を友達としようと思いながら寝た。六畳の和室に入り口側から私、優、窓側に望の三人で寝ていた。ドン!と下から突き上げるような音がしたかと思ったら、前後に・上下にすごい力で揺さぶられとっさに飛び起きた。ガチャガチャと割れた食器がぶつかる音、何かが倒れる音、座っている布団の上にバサバサと落ちてくる分厚い点字の本…。大きな地震を経験したことがなかったので、これはいったいなんだろうと呆然としていた。揺れが収まったところで、座っていたところから右手を伸ばすと、点字を書くための5キロほどのタイプライター(鉄の塊)が頭の真横に落ちていた。両親に呼ばれたのだろう、ふすまを開けて外に出ようとしたのだが、落ちてきた本やカセットテープが挟まっていてふすまが開かない。挟まっていたものを動かして、横向きに体が通るぐらいの細い隙間を作って部屋から出ると
「家の中ガラスだらけやから靴持ってきた」
と母が靴を用意してくれていた。後から聞いた話によると、私と優は名前を呼んだら返事があったのだが、望は返事がなかったようだ。望は倒れてきた自分の勉強机の隙間に挟まっていて、出られなくなっていた。聞いたところ、目を開けても真っ暗でみんなが名前を呼ぶから一生懸命手を上げて返事をしていたとのこと。この辺り私は憶えていないのだが、優が片手で勉強机を持ち上げ、その隙間から望は這い出してきたという。それなりの大きさがある勉強机、小学五年生の子供が片手で持ち上げられるほどの大きさではない。
「すごい力が出たんやろな」
と優は話していた。望が寝ていたすぐ左側にあった窓ガラスは割れていた。
パジャマに素足に靴を履いて、割れたガラスや、バラバラになったジグソーパズルの上を踏みながら団地の外廊下に出た。私は泣いていたように思う。私の家は半壊となった。呆然と廊下に立っていると、突然父が向かいの家のドアをドンドンと叩き始めた。
「大丈夫ですか!けがはありませんか?」
同じフロアには八軒の家がある。その中には私の事を
「目が見えないばいきん。気持ち悪い」
と言っていじめていた子も住んでいた。父は八軒の家を全部回って同じフロアの人に声をかけていた。今でも名前を憶えている向かいの家のおばあちゃん。足が不自由で、妹たちの話によると父と隣の家のおじさんが家に助けに入ったとのこと。
「おばあちゃん怪我してるわ。毛布持ってきてくれ」
そう母に呼びかける父の声を憶えている。妹たちは今でも血だらけで出てきたおばあちゃんの姿を憶えているようだ。廊下の窓から外を見ていた両親。
「火事や。市場が燃えてる」
最寄り駅近くの市場から大きな火の手が上がっているのが見えたようだ。
「学校が避難所になってるはずやから、そこに行こう」
となり
「あかんわ。コンタクトないから何にも見えへん」
と言っている母に手を引かれ、五人で10階から階段で下まで降りた。どこかの家から鳴り止まない目覚まし時計の音が聞こえていた。
望の友達、二家族と小学校の体育館で会い、早く到着していた私たちは壁際の場所にマットを敷いて自分たちの居場所を作ることができた。後からやってきた人たちも続々と体育館にマットを敷いて座っていた。
ここからは少しずつ記憶が断片的になっていく。
「コンタクト見つかったわ!あとこれ、靴下持ってきた」
明るくなって家の様子を見に行っていた両親は、なんとか家の中から取り出せるものを持ってきてくれた。家具はすべて倒れ、散らばった物や割れたガラスが散乱していた。食器棚の扉は開いて食器は全部割れていたらしい。ただ、景品でもらったようなコップは残っていて母はそれ以来
「高い食器は絶対に買わんとく」
と言っていた。
「うちに棚もう一つあったはずやねんけどな」
と思って見まわしていると、棚が崩壊してバラバラの板になっていた。前の日の夜ご飯だったクリームシチューが入った鍋は、そのまま床に落下していた。
「あれがひっくり返ってたら大変やで」
と言っていた。最初の下から突き上げるような振動により、跳ね上がった冷蔵庫で天井にガッツリ穴が開いていた。窓ガラスが2枚割れていて、もう少し家が落ち着いた後にダンボールを貼って応急処置をした。
その後数日を避難所で過ごした。震災当日の夜は近くのコンビニの人が
「みなさんで食べてください」
とお店にあったお弁当やおにぎりを持ってきてくれて、避難所の人たちで分け合って食べた。
次の日の早朝には、近くでガス爆発が起こるかもしれないからこの避難所をすぐに出た方がいいという情報が流れてきた。
「とにかく逃げよう」
と言われこれからどこに行くんだろうと思いながら訳も分からず準備をして体育館を出ると、情報はデマだと知らされた。ほっとして体育館に戻ったことを憶えている。
その日の夜のこと。突然避難所の入り口に大きな声が響いた。
「誰かお医者さんはいませんか?赤ちゃんが生まれそうなんです!」
緊張が走る中
「お医者さんじゃなくて看護師やったんやけど、大丈夫やろか?」
近所に住んでいたおばあちゃんが立ち上がった。体育館に大きな拍手が響いた。
震災から三日目の夜に電気が通った。
「よかったわぁ」
口々に聞こえる声と、大きな拍手を憶えている。
甲子園に住む叔父が車で、祖母が自転車で私たちの安否を確認するために避難所に来てくれた。スマホもない、携帯電話を持っている人もまだわずかだった時代、直接会いに行くしか安否の確認方法はなかった。
「怖かったな。大丈夫か?」
そう言ってくれた叔父の声を憶えている。
「電車動いてないから自転車で来た」
たくさんおにぎりを作って祖母が来てくれた。おにぎりと一緒に持ってきてくれたお漬物の味が忘れられないと母は話していた。すっかり様子が変わってしまった街を自転車や車で走りながら、叔父や祖母はどんな気持ちだったのだろう。
その日の夜ご飯は父が大阪方面まで買い物に行き、一緒に避難していた三家族で持ち寄ったキャンプ用品を使って、運動場で焼きそばを作ってくれた。温かい焼きそばがおいしかったこと、ほっとしたことを憶えている。
一緒に避難していた友達のお父さんが
「食べるもの困るなぁ。猫の餌やったらいっぱい家にあるねんけど、あかんわな」
と言い、
「土曜日やのにテレビ見られへんのか。スラムダンク見られへんのがほんまに残念やわ」
と言っていた。こんな話でもしないと、大人たちも限界だったのだと思う。
悲しいこともあった。 避難所にボランティアの方が来てくれて、食事を配ってくれた。その中の1人の女性の強い香水の匂いに驚いた。私たちは何日もお風呂に入っていないのに、どういう気持ちで香水を付けて避難所にボランティアに来るのかと考えた。他にも缶詰を一つ1000円で売りに来ている人、避難所に
「鍵ができる人は家に鍵をかけてください。泥棒が出ています」
の放送。
酔っぱらってけんかを始める人たち。殺伐とした空気を感じる場面も何度もあった。
地震から五日目。
優が熱を出した。嘔吐と発熱だった。
大阪にいる祖母の妹が
「家族でうちにおいで」
と言ってくれた。おばちゃんとお姉ちゃんの二人家族のところに、私たち五人と祖母が加わり八人で暮らすことになった。よく受け入れてくれたなと思う。本当に感謝の気持ちでいっぱいになる。
おばちゃんの家で食べたご飯、入ったお風呂の気持ちよさを憶えている。
「大変やったなぁ。ドロドロやん」
そう言って祖母が洗ってくれたことも。
大阪のおばの家にお世話になって数日。母が新聞を読んでくれた。
「水を求めて並ぶ人たち」
の見出しに、数日前まで私たちがいたような避難所の写真。神戸から電車で1時間ほどの距離の大阪では、普通に買い物ができ、電気がついていて、お風呂にも入れる。
複雑な気持ちになった。その後、叔母の家から近くの小学校に通う妹たちとは違い、私は盲学校に通うことになる。叔母の家からは通えず、初めての寮生活となった。電車のちょっとした振動で身体がびくっと反応し、母と
「こういうちょっとした揺れ、地震みたいでびっくりするな」
と話しながら電車に乗っていたことも憶えている。
その後の新しい盲学校での様子、初めて親元を離れての寮生活、まだガスが通っていない中、神戸に戻ってからの生活へと続いていく。
30年経ってこうして時系列でまとめることができてよかった。そして、父の事を初めて文章にした。震災から6年後に両親は離婚した。
人として許せないことが何度もあり、離婚して家を出てから20年以上父とは一度も会っていない。この先も会うことはないと思う。でも、地震のことを思い出すとき、必ず
「大丈夫ですか!けがはありませんか?」
そう言って家のドアを叩く父の声と様子を思い出す。かたくなだった父への気持ちは、母が亡くなってからのこの数年で少しずつ和らいでいることを感じている。地震の事、父のこと、文章にできてよかった。最後までお読みいただきありがとうございました。