【平田家住宅】東向きへのこだわりと土間が6割も占める古民家
はじめに
平田家住宅は北杜市小淵沢町にある移築古民家で、国指定の重要文化財です。
平田家は、武田家の家臣但馬山田守の子孫で江戸時代には大名主の百姓だったと言われています。
現在の建物は、重要文化財への指定を機に平田家より小淵沢町に寄贈され、1991年(平成3年)からおよそ1年半かけて現在地へ移築されました。2006年(平成18年)に小淵沢町は北杜市へ合併し、現在は北杜市の所有管理となっています。
郷土資料館の跡
案内看板に従って到着すると、移築された住宅の下に立派な資料館の建物があります。この建物は「小淵沢町郷土資料館」だった建物です。隣には「工芸文化伝習館」と書かれた建物もありますが、どちらも見学施設として使われている様子はありません。
北杜市に合併後、郷土資料館の機能は北杜市長坂町にある北杜市郷土資料館(旧長坂町郷土資料館)へ統合されたのでしょう。縄文土器などの考古資料は北杜市大泉町の北杜市考古資料館へ移されています。
平田家住宅の建てられた方角
元郷土資料館の建物のエントランス部分に受付がありスタッフが対応してくれます。また、概要を説明してくれます。
この平田家住宅の縮尺模型が用意されていて、東西南北の向きが示してあります。というのも住宅は、信仰の山である奥秩父連峰の金峰山(2599メートル)の方角へ正面を向いて建てられていました。具体的には、建物の正面が東を向いていました。
現在地への移築の際、平田家の当主からこれまでと同様に東の方向の金峰山へ向けてほしいという要望があり、その結果、受付のある元郷土資料館から見える建物は裏側になってしまいました。
ところで、川中島の合戦で有名な武田信玄と上杉謙信の一騎打ちを再現したレリーフのような像がありました。詳細は確認できませんでした。
平田家住宅
段を上がって着いた建物の第一印象は茅葺の屋根が大変大きいということです。しかし、こちらは裏側です。そのまま入ってもよいのですが、表側に回ってから入ることにします。
この住宅は江戸時代中期(17世紀後半)の建築と推定されています(正確な年代を示す資料がないため不明)。平田家は、武田家の家臣但馬山田守の子孫で江戸時代には大名主の百姓の家です。
1965年(昭和40年)頃、平田家が敷地内の隣接地に新居を建てたことで、この住宅は住まなくなり物置となっていました。
1989年(平成元年)国の重要文化財に指定されると所有者(平田長門氏)から小淵沢町に寄贈されました。ふるさと創生事業の一環として移築復元が行われました。
解体時の調査により最初に建築されて文化財指定されるまで5回の改築があったことが分かっています。
茅葺屋根がたいへんきれいな状態になっています。ただ軒先が低く作られています。刈りそろえた茅葺がきれいです。というのも、2021年(令和3年)10月より吹き替えが行われ本年3月に吹き替えが完了したもので、およそ半年休館していました。この地へ移築して以来初となる吹き替えとのことで30年ぶりとなります。
土間
広い土間をもち、外廻りや部屋境の柱が一間間隔に立ち、開口部が少ないことなどが、文化財指定になった要素です。
中に入りますと、第一印象は土間だ広いです。それもそのばすで、建物全体の6割を占めているといいます。柱も多く、これらの柱はクリの木で梁はマツです。馬屋があり、土間にも囲炉裏があります。この囲炉裏では屋根をいぶすために、受付の方とはスタッフが絶えず火が燃やしています。聞くと開館時は常に火を燃やしているそうで大変な作業です。
馬屋には、仕切りの中に藁で作った実物大の馬が2頭おいてあります。30年ずっとあるのでしょうか。
上座敷と下座敷
住宅にも上がれます。
客用の上座敷と下座敷があります。土間に面している方が下座敷、その奥が上座敷です。下座敷は火鉢があり接客用です。さらに格式の高い接客用に床の間を備えたのが上座敷です。
開口部が少なく、さらに室内の照明が暗くて画像の映りはよくないです。
居床と納戸、裏部屋
土間に面して居床(いどこ)があります。囲炉裏が中心にあり、日常の行事や接客、食事、夜なべ仕事などに使ったいわば居間です。
居床の裏に納戸(なんど)と裏部屋があります。納戸は何もありませんでしたが、裏部屋はこの施設の備品置き場として使われていました。
おわりに
道路に案内看板もあったりしますが、この平田家住宅の知名度はかなり低いです。郷土資料館も無くなり、この古民家だけではなかなか人が立ち寄るのは難しそうです。何の解決にもなりませんが、せめて、郷土資料館だった建物の一部を休憩用のフリースペースなど転用できないでしょうか。現状は古い民具がそのまま展示室に詰め込まれていたように思います。
ちなみに、平田家住宅の建っている場所はすぐ隣が古い墓地なのです。忠魂碑もあったりします。移築先の公有地としてこのような場所が選ばれたのでしょう。
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